2018年11月22日(木曜日)
ようこそ、ゲストさん。有料記事を見るにはログインが必要です。
 
 
ログイン情報を記憶

システム復旧致しました。

【読者投稿】教育格差 元予備校教師・翻訳家 三沢廣(みさわひろし)

【読者投稿】教育格差

 
学生時代、教育学専攻の学生二人と別々に論争したことがありました。どちらも天声人語を愛読し、日教組の思想に共鳴する若者でした。(当時はたいていの学生がそうでした)
 
一人は高校教師志望でしたが、「僕は受験教育は一切拒否するんだ」と主張しました。私は、「生徒がいい大学に入って社会のリーダーになりたいというのを邪魔するのか。教師が自分の信念で生徒の幸せを諦めさせる権利があるのか」と反論しました。すると、彼は「それは本当の幸せではないんだ」と言います。已哉(やんぬるかな)とはこのことです。もっとも、そんなに固い確信があるわけではなく、私がさらに「本当の幸せかどうかを教師が決める権利があるのか」と訊くと、「ううん。そうかなあ」と返事に窮する始末でした。
 
 もう一人は、当時の日教組のキャッチコピーだった「入りたい者は全員が大学に入れる制度を」と鸚鵡返しに唱える学生でした。究極の所は、入学試験を全部廃止せよというのです。
 
 私は「『入りたい者』というのは、現実の社会では『親が金を持っている者』ではないか。君の考えは、『能力による差別はいけないが、経済力による差別はかまわない』と言っていることになる。経済力による差別よりは、能力による差別の方がましだと思うがね」と言いました。彼の反論がすごかった。「経済力による差別も、能力による差別も、差別であることには変わりない」と言うのです。ただ、この学生は前の学生よりは知性を持っていたので、さらに論理を発展させることができました。「体制が変わらない限り(つまり共産革命が起こらない限り)、経済力による差別はなくならない。それなら、せめて、能力による差別から撤廃して行くべきだ」。
 
 進歩主義のお里が知れるとはこのことです。
 
 親の経済力による教育格差が生じたのは、五十年前に、東京都立高校の入試に「学校群」の制度を導入したのが契機になったと私は思っています。都立高校が大学受験に不利な体制になったら、私立高校が浮上するに決まっています。それを指摘する人は多かったのに、改革派は「そんなことはあるまい」と強弁して、強行したのです。
 
 その結果、一流大学に進学するためには、私立高校に入るのが断然有利になり、よい教育を受けるためには金が第一前提となってしまったのです。
 
 今ではその間違いが理解されるようになりました。都立高校の入試方式は学校群以前に近いものに復帰し、進学実績もどんどん向上しています。しかし、世の中全体が、「よい教育を受けるには金がかかっても仕方がない」という風潮に染まってしまったのはもう如何ともしがたいのです。
 
 私が一番憂慮するのは、外国の大学に入って箔を付けることを恥ずかしいと思わなくなってしまったことです。政治家や財界人や芸能人の子弟で、米国のアイビーリーグに進学する者が少なくありません。彼らの半数以上は金の力で入ったのです。「金の力で入っても、アメリカの大学は出るのが難しいから後で困るだけだ」というナイーブな意見も聞かれますが、それも、金さえ使えばなんとかなります。
 
 さる二世政治家について、私が知性の低さを指摘したら、ファンの女性が「あの方はアメリカの一流大学の大学院の修士論文を英語で書いたんですよ」と怒るのです。私が「そんなの、人に書いてもらったに決まってるじゃないですか」と笑ったら、殴りかからんばかりに逆上なさいました。「証拠があるんですか」とおっしゃいますから、「証拠がなきゃいけないと言っていたら、政治家の批判なんかできなくなるじゃないですか」と申しました。絶句して私の顔を睨みつけるばかりでした。
 
 日本でも、一旦まともな大学を出てから米国に留学する人の場合は、本当に優秀な人が多いのですが、胡散臭い人は驚くほどに胡散臭いのです。「日本であんな底辺の大学を出た人が、アイビーリーグに入れたのはおかしい」というのは、私には不正を憤る正論であるように思われるのですが、現在の風潮では、差別発言として糾弾されるのです。
 
 本当に優秀な人の場合でも、日本の大学に入らずに留学する人は、ズルとは言わないまでも、貧乏人には不可能なことを親の経済力で達成しているのです。最近は学歴主義反対論が世を席捲してしまったために、大学名で差別することはいけないということになりました。ところが、どういうわけか、米国の大学を出ている場合には、それが許されるのです。そのような教育観によれば、日本の大学には「いい大学とか悪い大学とかの差はない。みんな同じなんだ」ということですが、米国の大学なら、ハーバードだの、コロンビアだののブランドを振りかざせば、未だに「葵の御紋が目に入らぬかーッ!」と叫ぶことができます。だから、日本の受験競争に勝てる力を持った人でも、高校を出るとすぐに留学したりします。
 
 また、このごろは、高校教師になろうとしても、大学院を出ていないと難しくなっているという現実を御存知でしょうか。大学四年だけよりも、大学院で二年あるいはそれ以上勉強した人の方が優秀だというわけです。いい大学と悪い大学を差別してはいけないが、大学院と大学は差別していいというのですから、言い換えれば「質的学歴主義」を放棄して、「量的学歴主義」を導入したようなものです。
 
 親が金を持っていなければ社会の上層部に昇って行くことができないという社会になりつつあるのです。日露戦争で俘虜になったロシアの兵士たちは、日本軍では庶民の生まれでも将校になれると知ってびっくりしました。ロシアでは貴族の生まれでないと将校にはなれませんでした。日本では陸軍士官学校、海軍兵学校(極めて公平な選抜が行われていました)を出さえすれば、貧乏人の子でも、大将になることができたのです。滝廉太郎は赤貧洗うがごとき家に生まれながら、才能を認められて国費で留学し、歴史に名を残すことができました。
 
 そういう社会のどこが間違っているのでしょう。私は、格差社会を作ったのは進歩派だと思っています。貧乏人の子弟でも、能力を発掘してやらなければいけないのです。
 
 ある進歩的知識人が「エリート教育は受益者負担であるべきだから、公立の学校は関与すべきでない」と書いているのを読んだことがあります。公然と格差社会を認める進歩派です。なぜ進歩派がこんなことを言うのかと不思議なのですが、世の中にはウラのウラのウラがあるものですから、この謎を解明するのはさほど難しくないでしょう。
 
 どんな形であれ、教育を「受益者負担」にしてはいけないのです。

 
元予備校教師・翻訳家
三沢廣(みさわひろし)
 
経歴:
予備校教師(十校以上)
教科「英語・国語」