2017年09月22日(金曜日)
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没後20年に際して黛敏郎先生を偲ぶ  玉川博己

没後20年に際して黛敏郎先生を偲ぶ 

玉川博己

 

今年は「憂国忌」の創設以来長年にわたって「憂国忌」をリ-ドしてこられた作曲家・黛敏郎先生がこの世を去って丁度20年目を迎える。黛敏郎先生が亡くなったのは平成9年の4月10日であった。享年68であった。黛敏郎先生は昭和4年2月生まれであるから、大正14年1月生まれの三島由紀夫先生よりは4歳年下であり、同じ作曲家で東京音楽学校(現東京芸大)の同窓である團伊玖磨の4歳下、芥川也寸志の3歳下である。

黛敏郎先生が横浜一中から東京音楽学校に入学したのが昭和20年であるのに対して、昭和17年に入学した團伊玖磨や昭和18年に入学した芥川也寸志は音楽学校在学のまま陸軍戸山学校軍楽隊に入学し、戦地には出なかったものの厳しい戸山学校軍楽隊の教育を受けた。ちなみに芥川也寸志は昭和20年春戸山学校軍楽隊を主席で卒業し、当時の土肥原賢二教育総監から銀時計を受けたというエピソ-ドがある。実際の戦場には出ずとも、楽器を兵器となし、音楽を弾丸に代える軍楽隊での教育と訓練の経験は彼らに強烈な印象を与え、また実際に戦後彼ら戸山学校出身者が日本の音楽界で重きをなしていったのである。

一説によれば将来ある音楽家の卵たちをあたら戦地で死なせるよりも、彼らの天分を軍楽隊で生かす方がより国のためであるとの東京音楽学校幹部の陸軍上層部への説得が受け入れられたとのことである。一方黛敏郎先生は昭和20年4月に東京音楽学校に入学したときはまだ16歳であり、やがて数か月もせずして戦争は終わった。だから黛敏郎先生には軍隊経験もなく、軍楽隊で鍛えられた團伊玖磨や芥川也寸志とは全く異なる形で戦後を迎えたのである。黛敏郎先生についての評論を書いた片山杜秀氏(評論家、慶應義塾大学教授)によれば、黛敏郎に民族的な思考の影響を与えたのは短期間だが黛先生が師事した当時東京音楽学校のスタ-教授であった橋本國彦であったという。事実黛先生は昭和20年春に東京音楽学校に入学したが、戦局はもはや授業を満足に行える状況ではなく、黛敏郎少年の音楽の才能を見込んだ橋本國彦教授が鎌倉の自宅に黛を書生として住まわせたのである。

橋本國彦は明治37年生まれで、東京音楽学校で作曲を学ぶと、昭和初期には留学生として欧米に学び、とくにシェ-ンベルクからの影響を受けて帰国後はモダニストとして日本音楽界の寵児となった。昭和8年には東京音楽学校の教授となり、その門下生には先に述べた團伊玖磨や芥川也寸志のほかに矢代秋雄や黛敏郎など戦後の日本音楽界の重鎮となった面々ばかりである。そのモダニストであった橋本國彦もやがて戦争の時代になると積極的に国民意識高揚のための音楽を作曲するようになる。いわば美術の世界において欧州帰りのモダニストであった藤田嗣冶が戦争画の傑作を続々と描いていたそのときに、音楽の世界では日本を代表する作曲家にして東京音楽学校のスタ-教授である橋本國彦が国民意識を高揚し、決戦のための音楽を次々に作曲していたのである。そして黛敏郎少年はその書生として日々橋本國彦の傍らでその様子を見ていた。後年黛敏郎先生は、戦時中でも大変なダンディぶりで有名であった橋本國彦から多分そのダンディさとそして民族主義的な思考の影響を受けたと言っていたそうである。そして終戦は戦後日本が藤田嗣冶を戦争協力者として追放したように、音楽の世界でも橋本國彦を戦犯作曲家として抹殺したのである。その恩師が弊履の如く打ち捨てられる様子を黛少年は間近でつぶさに見たのである。敗北の悔しさ、民族が戦いに敗れた時の悲哀を黛少年は骨身に感じたに違いない。後年のナショナリスト黛敏郎の原点はここにあったと私は思う。

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