航空戦艦「伊勢」と「日向」の物語


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今日のお話は、宇宙戦艦ヤマト好きな方なら、絶対に興奮しそうな実話です。

実は、上にある絵は、上田毅八郎画伯の描いた「航空戦艦・伊勢」です。
実際にあった船です。
絵を見ると、前部が戦艦で、後部が空母になっています。ちょっと奇妙です。これが日本だけが保持した「航空戦艦」です。

この船は、同型で、2隻作られています。ひとつが「伊勢」、ひとつが「日向」です。
日本神話を司る伊勢神宮と、日本神話発祥の地である「日向」の名です。この2隻は、大東亜戦争開戦当初は、実戦で使い物にならない船として、練習艦として使われていたのです。ところが、この2隻が、戦争を最後まで戦いきり、大量の敵機を撃墜し、激戦のさ中にエンジンを停止して日本の誇る軍艦の乗員を救助するという快挙をやってのけ、さらには日本最後の航空燃料を持ち帰り、そして日本海軍最後の主砲発射をし、満身創痍となって、沈黙したのです。

この2隻は、もともとは「航空戦艦」として計画された船ではありません。
もともとは扶桑型の大型戦艦として計画された船です。
扶桑型大型戦艦は、一番艦「扶桑」、二番艦「山城」、三番艦「伊勢」、四番艦「日向」の4隻で、大正2(1913)年に建艦が計画されています。ただし、実際の建艦は、当初、一番艦の「扶桑」の建艦にはいったところで、残る3隻は、無期延期となります。
国会から、財政上の理由で待ったがかかったのです。
なるほど戦艦の建造は、莫大なお金がかかります。
目先の国の財政を考えれば、真っ青になる者が表れても仕方がない。
ところがこの「財政上の理由で戦艦の建造を停止」した、ということが、後々、ものすごく大きな問題を引き起こし、国家の財政を破たんさせたのみならず、多くの日本人の生命と財産を失わせるきっかけになりました。

ちょっと脱線しますが、このことについて、先に述べておきます。
国家の最大の役割は、国民の生命と財産を守るということです。
ときに国家は、国民の生命と財産を守るために、無理を承知の財政出動をしなければならないときもある。それが「政治」というものです。
はっきりと言わせていただきます。
日本が大東亜戦争に突入しなければならなかったのは、大正2年に、財政上の理由で、軍艦の建造を渋ったことが原因です。
このことを申し上げるためには、先に当時の情勢について語っておかなければなりません。
まず第一に、明治から大正にかけては、まだ航空戦の時代ではなかった、ということです。
よく「大鑑巨砲主義」という言葉を使いますが、まさに巨大かつ頑強な装甲を施し、大口径の砲塔を据え付けた巨大戦艦が、世界の海を制することができた時代であったということです。
そして世界はまさに「力」が支配していた時代です。
「力」の強い欧米列強は、「力」を持たない黄色人種や黒人を支配し収奪し、国家ごと植民地として支配下に置いていた、そういう時代です。
植民地支配された有色人種には、もはや「人権」はありません。
殺されても収奪されても文句をいうことはできない。
そして植民地からの奪うことが、欧米列強の「富」の源泉であり、彼らの「力」をますます強大なものとしていた。そういう時代です。
そんな中で、明治維新後、国力を増した日本は、明治38(1905)年、日本海海戦において、世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊を撃破します。
これによって日本は、黄色人種としては唯一、世界の三大強国の仲間入りをすることになった。
つまり、世界の三大強国は、日、英、米の三カ国となったのです。
そして日本は、有色人種唯一の、白人支配に対抗できる強国として、世界の期待を一身に担う国家となった。
実際には、日露戦争は辛勝であり、戦争に勝利したとはいってもロシアからの賠償金はもらえず、国家財政は極めて厳しい状況に置かれていたのだけれど、白人支配に苦しめられている国々からみたら、日本は、まさに夢のような武士の国、であったわけです。
しかもその日本は、世界最強の植民地国家である大英帝国と同盟関係にあった。
つまり、世界から見れば、世界第一位の強国と、それに並ぶ強国の2カ国が同盟関係にあったことになる。これは、のちのちの世でいえば、全盛期のソ連と冷戦時代のアメリカが、同盟国となったようなものです。この同盟に勝てる国は、世界広しといえども、どこにもない。
そんな中で英国は、明治39(1906)年、「ドレッドノート」という名の、革命的な超ど級戦艦を就役させます。この船は、世界初の蒸気タービンエンジンを搭載した船で、巨大戦艦でありながら、超高速走行が可能だった。しかも装甲は厚く、敵のどんな大砲の弾もはじき返してしまう。さらに、世界一の巨大主砲を装備し、この主砲は、世界のどの戦艦の最強装甲でさえも打ち破る。
ドレットノートは、たった1隻で、大型戦艦2隻分の戦力を有し、たった1隻で、世界中のどの艦隊と勝負しても勝ち抜けるだけの戦力を保持しているというまさに、破格のバケモノ戦艦です。
こうなると、世界は英国にひれ伏さないといけない。
なにせ、バケモノ戦艦「トレッドノート」1隻が来るだけで、他の国々の艦隊は、ひたすら逃げまくらなければならなくなるからです。
こうなると日本も、対抗上、強大な力を持つ戦艦を建造せざるを得なくなる。
なぜなら、日米の軍事バランスがくずれれば、同盟関係が主従関係に化けてしまうからです。
力の強い者が正義であり、力の弱い者はどんなに「正しいこと」を言っても、「力」の前には屈服せざるを得ない。
だから世界は、「トレッドノート」の就役にともない、未曽有の巨大戦艦建造ラッシュになります。
日本ももちろんそうだったし、世界の三強のなかの一国である米国も、もちろん同様です。
ここで問題なのが、米国の立ち位置です。
米国は新興国です。アメリカ合衆国が建国されたのは18世紀のことですが、南北が統一されて統一国家となったのは、ちょうど日本の明治維新の頃のことです。米国は、明治31(1898)年にスペインとの米西戦争に勝利して、ようやくグアム、フィリピン、プエルトリコという植民地を手にし、明治32(1899)年にフィリピンに戦争をしかけてフィリピン独立を鎮圧して米国支配下に置き、さらに明治33(1900)年に、義和団事件の平定のためにと称して、ようやく清国に派兵した。
要するに当時の米国は、まさに米西戦争や米比戦争、あるいは義和団事件をきっかけにして、東亜の植民地支配に、王手をかけつつあった、という時代にあたるわけです。
当然、太平洋を渡るわけですから、強大な海軍力が必要となる。
そして同時に、そうした米国の東亜進出にあたって、最大の障害が、武士の国、日本だったわけです。しかも間の悪いことに、その日本は、世界最大の強国である大英帝国と同盟関係にある。この時点で米国が日本に喧嘩を売れば、同盟関係にある英国とも一戦交えなければなりません。実家が英国にあるという人々が多い米国において、そんなことは世論が許さない。したがって当時の米国は、日本に手出しをすることはできず、また日本に遠慮をしながらでなければ、東亜における植民地支配地の拡大はできない、という情況にあったのです。
ただし、ただしです。
日本が弱国となれば、話は別です。
米国は、せっかく築いた太平洋艦隊を駆使し、東亜を好きなように侵略し、分捕ることができる。
そういう時代背景の中で、一方で英国が「トレッドノート」を就航させ、一方で、日本が国際経験に不勉強な外交オンチのエセ平和主義のアホタレ政治家によって、新型戦艦の建造を停止したのです。厳密には、あとで詳述するけれど、結果として戦艦の建造は行っています。これは海軍からの相当なクレームで、ようやく予算がとれたからです。
けれど、相当予算をケチられた結果、少ない予算で無理やり強力戦艦を作ろうとした結果、設計に無理が出てしまった。結果、新造の戦艦は、実戦で「使い物にならない」ツマラナイ船になってしまった。
これによって何が起こったか。
つまり、軍事バランスが崩れたのです。このチャンスをほっておいてくれるほど、世界は甘くはありません。日本おそるに足らずと見た米国は、大正11(1922)年に、米国の首都ワシントンで軍縮会議開催を呼びかけます。そして、日、英、米の保有艦の総排水比率を、3:5:5と決めてしまいます。
この会議に出席した日本政府の代表は、これで軍事予算を軽減できて財政が潤った、世界が軍縮に向かって、良かったよかった、と小躍りして喜んだ。

しかも、なんと、陛下の勅許さえ得ないで独断でこれを決めてきてしまった。

こういうことは、幕末に井伊直弼が、天皇の勅許を待たずに独断で日米和親条約を締結し、その結果、日本の金(gold)が大量に米国に流出し、日本から金(gold)がなくなってしまったのと同じで、とかく日本の政府が陛下を軽んじると、のちろくなことが起こらない。日本国内では、政府の勝手なワシントン条約批准に、これは陛下の統帥権を干犯した大問題である、との抗議運動が起こって内政は大混乱します。
かたや世界では、日本がこの条約を飲むやいなや、翌年8月には日英同盟が失効してしまう。継続は、なしです。
変わって米英が同盟国となった。
つまり、世界の三強国(日、英、米)は、それまでの、(日5+英5)対、米5という関係だったものが、なんと一夜にして、日3、対(英5+米5)という、状態になったのです。

軍事バランスが変わった。
米英の10に対して、日本3では勝ち目がありません。それまでの米英日の軍事バランスは、これで完全に崩れ去ったのです。日本は一夜にして「軍事弱国」になってしまったのです。こうなると、あとは日本の力を削ぐだけです。米国は、日本の行うありとあらゆる国際政策に対し、なんだかんだと難癖をつけるようになります。そしてついには、中国内にいる不良武装集団である軍閥に、英国と手を組んで武器弾薬や糧食を裏から渡し、外地にいる日本人を殺害したり、拉致したり、日本人婦女を強姦したりと、あくどい戦争挑発行為を行いはじめます。そしてついには、日本に対してハルノートを突き付け、日本が戦争に踏み切らざるを得ないように挑発した。要するに、日本が支那事変や大東亜戦争に向かわざるを得なくなったその遠因を手繰り寄せれば、それは、英国が「トレッドノート」を建艦し、日本が扶桑級4隻の軍艦建造を「財政上の理由」から「渋った」ことが、遠因である、ということです。
こうした切り口での解説には、保守系の方でも、詳しい方なら詳しい方ほど、いろいろなご説はあろうかと思います。
けれども、国際情勢の中で、やるべきときにはやらなければならないこと、いかに財政上の苦労があろうが、軍事バランスを常に「強者」に置いておく努力がなければ、国家は他国に軽んじられるのだ、という事実は、ちゃんと記憶しておく必要があるものと思います。
軍隊というものは、戦争をするためのものではありません。軍隊は、戦争を未然に防ぐのが、最大の役割なのです。そこを間違えると、財政上の理由でケチった何百倍ものツケを払うことになり、国の経済は傾き、国民の生命も財産も失うハメになる。これが現実となったのが、大正2年の軍艦建造反対の国会の動きだったのです。

さて、お話が、ものすごく脱線してしまいました。
今日の物語は、航空戦艦「伊勢」と「日向」です。
扶桑級大型戦艦である「扶桑」、「山城」、「伊勢」、「日向」の4艦は、計画段階で予算の関係で待ったがかけられ、ようやく大正2(1913)年に「扶桑」、大正3年に「山城」が建造開始となります。
ところが、世界最強クラスの戦艦を建造しなければならないという海軍の要求に対し、予算はついたものの、大幅な圧縮予算です。いざできあがってみると、一番艦「扶桑」、二番艦「山城」とも、なんと主砲を打つと機関が壊れるという重大な問題を引き起こしてしまいます。
要するに、予算をケチられた状態で、無理な装備を施した結果、設計そのものにひずみが出てしまったのです。これでは戦艦の体をなしません。で、やむをえず「扶桑級」戦艦としての建造はあきらめ、あらためて「伊勢級」戦艦として、着工開始になったのが、「伊勢」と「日向」の姉妹戦艦です。
しかし、刻々と動いている世界情勢の中で、あらためて一から設計しなおすだけの時間的余裕は、日本海軍にはありません。
そこで「若干の改良型」として、「伊勢」は大正6(1917)年、「日向」は大正7(1918)年にそれぞれ就役します。そして大正から昭和のはじめにかけて、「伊勢」と「日向」の姉妹は、徹底的に船体の改良をされていきます。そして、昭和9(1934)年、緊迫する世界情勢の中で、姉妹は大改装を施されます。
まず第一に、艦の主砲の最大仰角が45度に引き上げられます。
当時の主砲というのは、仰角が上がれば上がるほど、砲弾が遠くに飛ぶようになります。そのかわり命中率が下がる。それを「伊勢」と「日向」は、砲台の仰角としては最大の45度という、限界仰角にまで引き上げた。もともとは、最大仰角25度で設計された船です。それを一気に45度に引き上げた。しかも砲弾の命中率さえも向上させた。
これによって姉妹の射程距離は、なんと3万3千メートルになった。なんと、33キロ先の目標に向かって正確に着弾させることができるようになったのです。次に装甲が格段に強化されました。これで、少々の魚雷にあたっても、船はビクともしない。さらに新型タービンエンジンを搭載し、最高速度も25.3ノットまで引き上げられた。(それでもまだ世界の標準艦には追い付かない)
そして新型の対空機銃や高角砲によって、対空防御力が格段に向上、さらに光学機器や新型測機器、レーダー、無線等が装備されます。ところがそれでもやはり速力が遅い。連合艦隊の機動部隊に参加するなら、やはり30ノットはほしかったのです。なので「伊勢」も「日向」も、大東亜戦争の初期には練習艦として使用され、実戦配備されなかった。
そんな姉妹に、いよいよ実戦投入が決まったのが、昭和17(1942)年6月のミッドウエー海戦です。「伊勢」も「日向」も、猛烈な訓練にいそしんだ。そんな折に、重大事件が起こります。昭和17(1942)年5月5日、愛媛県沖で主砲の発射訓練を行っていた「日向」の、艦尾五番砲塔が突然大爆発を起こしたのです。砲塔部が吹っ飛び、乗員54名が一瞬にして亡くなってしまった。
やむなく緊急でドック入りした「日向」は、砲塔部をそっくり外し、その穴を鉄板で塞いで、上に二五ミリ四連装機銃を突貫工事で装備した。そんな状態で、「日向」はミッドウェー作戦に参加します。
なにせ「伊勢」と「日向」には、試作品とはいえ、レーダーが装備されているのです。
ところが姉妹の持つレーダーも、まったく活かされないまま、ミッドウエー海戦では日本軍が大敗してしまいます。

そして日本は、大切な空母を失う。

失われた空母力を補うため、日本は、急きょ間に合わせでも構わないから、空母を用意する必要に迫られます。商船や、水上機母艦など、ありとあらゆる船を空母に改造することが検討されますが、どれも帯に短したすきに長し。で、結局、建造中の大和型戦艦3番艦である「信濃」を空母に改装すること、および、事故で後ろ甲板を損傷して鉄板でふさいでいる「日向」、同型の「伊勢」を航空戦艦に改造することが決定されます。しかし、もともと戦艦として設計された「伊勢」と「日向」には、艦の中央に巨大な司令塔(艦橋)があります。これを壊して空母に改造するとなると、完成までに1年半はかかってしまう。それなら、艦の後部だけを空母にしちまえ!とできあがったのが、冒頭の絵にある「航空戦艦」という形でした。そして「伊勢」は呉の工場で、「日向」は佐世保の工場で、それぞれ大改造を施されます。
ただ、問題があります。
艦の中央に巨大な艦橋がある以上、空母として航空機の発着陸に必要なだけの十分な滑走路を確保できない。で、どうするかというと、まず離陸にはカタパルト(射出機)を使用することにした。
これなら、長い滑走路は必要ありません。
カタパルトは、新型のものを備え付けました。30秒間隔で、飛行機を射出できる。これを二基備え付けます。これによって、わずか5分15秒で全機発艦できるというスグレモノです。これは、当時としては世界最速といっていい。では着陸はどうするかというと、一緒に航海する空母に着陸させればよい、ということになった。といって、空母側だって艦載機を満載しているわけです。そこに「伊勢」「日向」から発進した飛行機が着陸してきたら、もといた空母の飛行機が着陸するスペースがない。
で、どうするかというと「出撃後に墜とされるから艦載機の数が減る」という、いささか乱暴な理屈になった。残酷な話ではあるけれど、それは現実のことなのです。さらに航空戦艦への改造と併せて、「伊勢」「日向」には、ミッドウエーの教訓から、対空戦闘能力の徹底強化が施されます。対空用三連装機銃が、なんと104門も配備されたのです。それだけではありません。新開発の13センチ30連装の対空ロケット砲も6基装備した。各種対空用の射撃指揮装置も増設し、「伊勢」と「日向」は、超強力防空戦艦としての機能も身に着けたのです。

こうしてようやく完成した姉妹は、昭和19(1944)年10月に戦線に復帰することになります。
ところが、艦載機となることを予定していた飛行機が、台湾沖航空戦で全機損耗してしまった。
結果、「伊勢」「日向」は、艦載機を持たないまま、同月24日のレイテ海戦で、小沢中将率いる第三艦隊の一員として参加します。
「伊勢」「日向」の姉妹は、フィリピン沖で、米軍のハルゼーが繰り出してきた527機の大編隊を敵に回し、海上から猛烈な防空線を展開します。
この戦いで、小沢艦隊は、空母4隻を失う大損害を得るのだけれど、その猛烈な戦いのさ中、「伊勢」も「日向」も果敢に対空線を挑み、両者あわせてほとんど損傷を受けないまま、100機近い敵機を撃墜するという大奮戦をしています。
さらに「伊勢」に至っては群がる敵機との戦闘のさ中に、自艦のエンジンを停止させ、被弾し沈没した旗艦「瑞鶴」の乗員を救助することさえしています。
エンジンを停止するということは、当然、艦は停まります。
停まっている的は、爆撃機の爆弾が当たるのです。
ですから敵爆撃機との戦闘中にエンジンを停止するなど、まさに暴挙に等しい。
けれども「伊勢」の持つ強力な対空砲火と、戦艦設計の強力な装甲は、敵弾を跳ね返し、群がる敵機を片端からはたき落しながら、「瑞鶴」の乗員100名余を、助けている。
これはすごいことです。
レイテ沖海戦の結果、日本海軍は完全に制海権を失い、日本の戦況はますます厳しさの一途をたどることになります。
レイテ沖海戦で生き残った「伊勢」と「日向」は、以後、輸送艦として、主に物資の運搬に用いられます。航空戦艦を輸送船に使うなど、もったいない話にみえるけれど、当時の状況下では、強固な装甲を持つ戦艦が輸送任務をこなすことが、もっとも安全確実なこととなっていたのです。
「伊勢」と「日向」は、昭和19年11月、シンガポールから航空燃料、ゴム、錫などを内地に運んでいます。途中で、何度も米潜水艦に狙われたのだそうです。
けれども、そこは、もともとが戦艦です。なんどとなく米潜水艦を撃退しつつ、無事に、内地にたどり着いた。このとき「伊勢」「日向」が持ち帰った航空燃料が、日本が外地から持ち込んだ最後の航空燃料です。
沖縄戦における特攻隊や、東京、大阪、名古屋等の大都市への本土空襲に果敢に立ち向かった戦闘機が使用した燃料は、この姉妹が持ち帰った最後の燃料です。
そして姉妹は、自走するための燃料さえもなくなり、呉で海上砲台として停泊したままになります。
そして「伊勢」と「日向」は、終戦間近の昭和20年7月28日、米軍機の猛攻撃を受けて、最期まで抵抗を続け、大破着底した。
このとき、着底した状態で対空射撃終了後に、伊勢が群がる敵機に向かって、主砲をドドンと放ちます。
そしてこの砲撃が、日本戦艦が行った最後の砲撃です。

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航空戦艦伊勢の最後

冒頭にも書きましたが、「伊勢」と「日向」の名前は、ともに日本神話ゆかりの名前です。
「日向」は、神話発祥の地、天孫降臨の地です。
神々の子孫である歴代天皇が祀られているのが「伊勢」です。
そして日本神話というのは、昨日の記事のオオクニヌシの物語にも書きましたが、神々の成長の物語でもあります。いってみれば、できそこないの船としてできあがってしまった「伊勢」と「日向」の姉妹は、いろいろな事件を経て、航空戦艦というものすごい兵器に生まれ変わりました。
そして、日本海軍華やかりし頃には、使い物にならない船として、練習艦にしかされなかった。
その2隻が、ミッドウエーの敗戦後、戦況厳しくなった折、誰よりも活躍し、最後の最後まで抵抗する要の船となり、そして最後まで抵抗して、日本海軍最後の砲撃を行って、沈黙した。
日本神話の物語そのものを見ているような姉妹の生涯です。なんだか、とっても身につまされるような気がします。でも、「伊勢」も「日向」も、後世に生きるボクたちの目から見て、実に「かっこいい」って思います。

ありがとう!!伊勢、日向!!
ありがとう!!航空戦艦!!

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