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対談 皇位は神勅に基づく  荒岩宏奨 展転社編集長

 対談 皇位は神勅に基づく  荒岩宏奨 展転社編集長

 

土屋 八月八日に天皇陛下のお言葉が発表されました。荒岩さんはこの天皇陛下のお言葉をどのように聞きましたか。

荒岩 天皇陛下の伝統に対する深い思い入れ、そして常に国家と国民の安寧を祈られているということを拝することができたお言葉でありましたが、衝撃的なお言葉でもありました。

土屋 「衝撃的なお言葉」ですか。その詳細はのちほど聞くことにして、まずは天皇陛下のお言葉を拝して、譲位していただくべきだと思ったかどうかをお聞きしたいと思います。

荒岩 そもそも、譲位に関するお言葉だとは思いませんでしたし、今でも本当に譲位に関するお言葉なのだろうかと疑問に思っています。しかし、その後の世間の風潮は、天皇陛下のお言葉は譲位に関することだという前提で進んでいます。これは、NHKの「生前退位」というスクープによって先入観が与えられてしまったからではないかと私は思っています。

 このたびの天皇陛下のお言葉を拝して、戦後の日本国憲法によって規定されてしまっている、いわゆる「象徴天皇制」の問題点が浮かび上がったと私は感じました。

土屋 その「象徴天皇制」の問題点とは、天皇が「元首」ではなく「象徴」となっているという点でしょうか。

荒岩 いえ、「象徴」という言葉は曖昧であり漠然としていますが、間違っているとまでは言えないと思います。もちろん、「元首」と明記した方がいいですし、私は元首では他国の大統領と同列にされてしまう恐れがあるので、「君主」とするのが一番適切な表現だと思います。

 明確な誤りは「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」(日本国憲法第一条)という部分でして、この条文がいわゆる「象徴天皇制」の大きな問題点です。

 この条文では、皇位や象徴としての天皇のあり方が国民の総意によって決まってしまいます。しかも、「主権の存する」日本国民なので、戦後の日本国民しか対象になっておりません。しかし、皇位は天照大神(あまてらすおおみかみ)の天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅によって定められたのです。そして、天皇のあり方の根本は宝鏡奉斎の神勅と斎庭の稲穂の神勅で定められているのです。我々国民が決めることではありません。だから、本来は自主憲法制定または大日本帝国憲法の復元改正が望ましいのですが、ここでは憲法議論はとりあえずおくとして、日本国憲法第一条は「この地位は、神勅に基く」でなければなりません。

 日本国憲法では、皇位や象徴としての天皇のあり方が「主権の存する日本国民の総意に基く」とされてしまっているために、皇位や象徴としての天皇のあり方に関することは国民の総意が必要だということで、このたびのお言葉の発表へとなったのではないでしょうか。

 ですから、このたびのお言葉を拝して必要な議論とは、国民が譲位を認めるか認めないかではなく、皇室典範が国務法、つまり日本国憲法下の一般法になってしまっているという根本を見直すことではないかと思います。かつての皇室典範のように、国務法から切り離して宮務法に戻すべきです。

土屋 たしかに、占領中に変えられた憲法を正さなければなりませんし、皇室典範はやはり宮務法に戻すべきですね。

 それでは次に、天皇陛下のお言葉を「衝撃的なお言葉」と感じたのはどの部分だったのかを聞きたいと思います。

荒岩 お言葉のはじめの方で「天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います」とおっしゃっていらっしゃいます。この「個人として」に大きな衝撃を受けました。

 本来、天皇とは公(おおやけ)のご存在です。つまり、このお言葉は、天皇という立場の意見は述べないで、「あくまでも天皇の立場とは切り離した個人的な意見を話します」と表明なされたのではないかと思ったのです。

 もちろん、天皇とは太古の昔から神であると同時に人間でもありますから、公私の「私」の部分も皆無ではありません。これまでにも私的な部分を御製にお詠みあそばされ、公表されていらっしゃいます。しかし、御製とは天皇の御位に坐(ま)します御方の御歌のことですから、その御製も天皇という御位から切り離されたものではありません。

 ですから、このたびのお言葉を拝して衝撃を受けました。これは日本国憲法を遵守するゆえの苦肉の策だったのでしょう。すると、やはり日本国憲法における天皇条項の改正と皇室典範を宮務法に戻すことが重要だと思います。

土屋 譲位に関しては保守派の間でも意見が分かれ、譲位を認める保守派からは承詔必謹だという声が多く聞かれるようになりました。この意見についてはどう思いますか。

荒岩 承詔必謹について異論はありません。やはり承詔必謹だと思います。しかし、そもそもこのたびのお言葉は詔なのか、それとも詔ではなく、御位から切り離された個人としてのお言葉なのか、またはそのような個人としてのお言葉が成り立つのか、私にはよくわかりません。

 現在の言論界における論争は、譲位を焦点として行われており、さらに承詔必謹についてもこのたびのお言葉が詔であることを前提として行われているように感じます。

 私は、高齢社会における象徴としての天皇のあり方を国民も模索せよというお言葉のように感じましたので、その方法の一つとして譲位があるのでしょうが、それはあくまでも方法の一つだと思うのです。

 ですから、先入観を取り除いてから議論する必要があるような気がします。ただ、その議論も、占領中に改変を余儀なくされた現行の日本国憲法第一条と一般法としての皇室典範を前提としてのことなので、一番重要なのはやはり憲法を正すことと皇室典範を宮務法に戻すことです。