2018年12月16日(日曜日)
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国境の島対馬を守れ 西村眞悟

北九州博多から北北西に約百キロの海上にある対馬と、朝鮮半島南端の都市釜山との距離は約五十キロである。
この対馬は、天智二年、西暦六六三年の朝鮮半島西岸の白村江の戦いで我が国が唐と新羅の連合軍に敗れて以来、「国境の島」となって現在に至っている。それ故、白村江の戦い後には防人が投入されて現在に残る巨大な山城(金田城)が築かれ、明治維新後は島内各所に巨大砲台か建設され島全体が砲台群を擁する要塞のようになった。
 
何故なら、蒙古襲来にみるように、大陸の強国が我が国に侵攻しようとするときには、朝鮮半島を基地として、まず対馬を攻略しようとするからである。
二十世紀初頭の日露戦争前のロシアの皇帝や陸海軍そして外務省関係者の発言や報告を掲載したロシア海軍軍令部が作成した「露日海戦史」には、ロシアの対日戦争構想が記載されており、そこには、対日戦争では、まず朝鮮を占領し、馬山浦を前進根拠地とし、「日本人を撃破するのみにては不十分」で「更に之を殲滅せざるべからず」と書かれている(平間洋一著「日露戦争が変えた世界史」)。
しかし日露戦争において、対馬沖でロシアのバルチック艦隊を我が国の連合艦隊が撃滅して日露戦争勝利を決定づけた。反対に我が国が対馬沖で負ければ、ロシアの前進基地は対馬に南下して、我が国はロシア海軍軍令部が書いている通りに、日本という国家自体が殲滅され消滅したであろう。
 
このように、歴史上、対馬は我が国の運命と深く関わる「国境の島」であったが、戦後体制が続く中でその危機感は薄れた。
そして現在、対馬内の巨大な砲台跡に建てられた長崎県の説明書きには、これが明治以来の切実な我が国の国防における努力の結果であり、対外的に大きな抑止力を発揮していたとの説明は一切なく、軍事優先時代の無駄な遺物のような説明である。
しかし、現在、アメリカの世界の警察官からの撤退と国際情勢の地殻変動、そして南の韓国における親北朝鮮の文在虎大統領の出現は、明らかに三十八度線を南下させている。そして、時が来れば、三十八度線は、釜山と対馬の五十キロの海の上にあることが判明するであろう。即ち、北朝鮮が対馬の数キロ北の海まで来るのだ。
 
私は、平成十五年に始めて対馬を訪れた。そして、日露戦争における日本海海戦(ロシアでは対馬沖海戦と呼ぶ)百周年にあたる平成十七年(二〇〇五年)五月二十七日から本年まで、毎年五月二十七日の、戦前は「海軍記念日」であった海戦の日には、北対馬の海戦海域を見渡す殿崎の丘を訪れ、日本海軍将兵の勇戦敢闘を讃え、同時に、日露両軍戦没将兵の慰霊祭に出席してきた。本年は、もちろん五月二十七日に対馬を訪れたが、さらに十一月十一日から十二日までまた対馬を見てきた。
 
そこで、この十五年に及ぶ私の対馬訪問で見た一番の変化を言えば、対馬への韓国人来訪者の急増と、韓国人の所有地の急増である。その象徴的なものは竹敷にある我が海上自衛隊基地の隣の真珠工場の敷地を韓国人が買収してリゾート施設にしていることだ。
また、陸上自衛隊の駐屯地のヘリポートを見下ろす位置に、韓国人専用マンションが出現している。
これは、まさに「国境の島」の緊急事態だといえる。よって、今までの見聞を基に次の通り提言する。
 
(1)「国境の島」および国内要地の外国人土地所有を禁止する。即ち、外国人の土地購入を禁じ、既に購入している外国人から土地を接収できる特別措置法が必要である。
 
(2)対馬は海岸線の総延長一千キロに及ぶリアス式海岸の島で、山岳地帯の頂上部分が海から出ているような地形である。よって、緊急時には陸路よりも海路の移動の方が遙かに迅速だ。従って、対馬駐屯の陸上自衛隊は、数隻の揚陸艦を保有し運用するべきである。
また、現在のように、「国境の島」に駐屯する海上自衛隊には船がなく、航空自衛隊には飛行機がないのは、どう見てもおかしい。すぐ北の海まで来ている三十八度線の向こうから見ている仮想敵に見くびられる。