2018年10月17日(水曜日)
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【天皇御製に学ぶ】 第二十四回 四宮正貴

後土御門天皇御製 
 
伊勢
「にごりゆく 世を思ふにも 五十鈴川 すまばと神を なほたのむかな」
 
第百三代・後土御門天皇は、後花園天皇の第一皇子。嘉吉二年(一四四二)五月二十五日、ご生誕。寛正五年(一四六四)七月十九日、後花園天皇の譲位を受けて践祚(即位は翌年の十二月二十七日)。以後三十七年間にわたりご在位された。
天皇が践祚されて四年目の応仁元年(一四六七)に「応仁の乱」が勃発、疫病の流行・大火大地震・武家の専横などがあり、皇室の衰微が極に達し、朝廷の御行事も容易に挙行できなかった。
 
文明十一年(一四七九)に、「応仁の乱」が終はり、後土御門天皇は、朝廷行事の復興につとめられ、文明十四年(一四八二)正月、途絶へてゐた内裏での元日・白馬・踏歌といふ三節会の儀を再興された。しかし、「朝儀の再興」は財源が枯渇し、御心通りにはならなかったと承る。
 
明応九年(一五〇〇)九月二十八日、天皇が御年五十九歳で崩御になられると、朝廷も幕府も財政難で費用がまかなへず、十一月十一日の御大葬まで、御遺体を宮中に御安置申し上げたまま四十三日に及んだと承る。何とも悲しき事実である。御陵は京都市伏見区深草坊町の深草北陵である。
後土御門天皇は、和歌を極めて好まれたので、戦乱の世にあっても歌会が頻繁に催された。御集『紅塵灰集』のほか数種の御詠草が伝はる。
 
この御製は、後土御門天皇が、明応四年(一四九九)「伊勢」と題されて詠ませられた。聖天子の篤き祈りの御歌である。いかなる困難な時期であらうとも、否、さうであるが故に、伊勢の大神への祈りを重ねられたのである。有難き限りである。
後土御門天皇は、このほかにも次のやうな御代を憂へられる御製を詠まれてゐる。
 
寝られねば またかきおこし 埋火の もとにもかはる 世を歎きつつ
 
神代より いまにたえせず 傳へおく 三種(みくさ)のたから まもらざらめや
 
ともすれば 道にまよへる 位山 うへなる身こそ くるしかりけれ
 
あおげなほ 岩戸をあけし その日より 今にたえせず 照らす惠は
 
土御門天皇は如何なる混迷の世であっても、上御一人としての貴き御自覚を強く保持し続けられた。さらに、神代以来の皇祖神・天照大御神への信仰精神を保持し続けられたのである。
後土御門天皇の御製を拝する時、日本天皇はまことにも日本の祭り主であらせられる事を実感する。
 
宇治橋を渡って、清らかな伊勢皇大神宮の神域に入り行くと、神路山を背景にして立つ日章旗を仰ぐことができる。伊勢の皇大神宮にお参りする度に、この日章旗を仰ぐ時、本当に日本人に生まれ来た喜びと有難さを実感する。
 
伊勢の神宮は日本伝統信仰の結晶である。日本伝統信仰の最尊最貴の聖地であり、日本伝統信仰が現実のものとして顕現してゐる。日本伝統信仰とはいかなる信仰であるかは、伊勢に参宮して神を拝ろがめば感得できる。理論理屈は要らない。
吉川英治氏は「ここは心の ふるさとか そぞろ参れば 旅ごころ うたた童に かへるかな」と詠んだが、伊勢の皇大神宮にお参りに行かせていただくと、本当に魂の「魂のふるさと」に帰って来た心地がする。
 
参道を歩み行き、一の鳥居をくぐり、五十鈴川の御手洗場(みたらし)に至る。五十鈴川は別名を御裳濯川(みもすそがわ)と言ふ。倭姫命(垂仁天皇皇女)が御裳のすその汚れを濯がれた事から名付けられたと承る。
 
日蓮上人は、『聖愚問答鈔』で「念仏の行者は弥陀三尊よりほかは…諸天善神を礼拝雑行と名づけ、又之を禁ず。しかるを日本は夫れ神国として、伊奘諾・伊奘再尊此国を作り、天照大神垂迹御坐(あとたれいま)して御裳濯川の流久うして今にたえず豈此の国に生を受けて此の邪義を用ゆべきや」と書いてゐる。
 
創価学会は、会員の神社参拝を禁止してゐるが、これは篤くいせの大神を尊崇してゐた日蓮、靖国神社に参拝していた牧口常三郎初代会長に全く背くものである。
創価学会は今日、日蓮正宗宗門との正統争いの過程でしきりに「日蓮大聖人直結・御書根本」と言ってゐる。であるならば、日蓮の意志通り「神祇不拝の邪義」を捨て、天照大神などわが国の天神地祇をお祀りする伊勢の神宮など全国の神社に参拝すべきである。
 
今日の日本も「応仁の乱」当時ほどではもちろんないが、「にごりゆく世」である。五十鈴川のやうな本来の日本の清き姿に回帰することを日本国民は神に熱祷しなければならない。