2018年08月16日(木曜日)
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【明治維新批判の過ち】 新しい歴史教科書をつくる会副会長 皿木喜久

通常のコースに逆行して東から西へ、さらには南へと進んだ台風12号には日本中が困惑させられた。この台風の動きを見ていて、ふと「明治150年」を前にした維新批判論を思い起こした。
 
台風の場合、「へそ曲がり」だったわけでも、気まぐれが過ぎたわけでもなかった。例年に比べ異常に強い二つの高気圧に遮られ、行く手を失った末、迷走したという科学的合理性があったようだ。だが、明治維新を「薩摩、長州による権力奪取のためのクーデター」「天皇絶対主義に戻す時代遅れ」とする「過ち」論にはそうした科学的合理性はうかがえない。単に維新を高く評価する世の動きに逆らうことで、目立とうという「へそ曲がり」しか感じられない。
 
なぜ、徳川幕府を倒して明治維新を断行しなければならなかったのか。それは近代的な中央集権国家をつくらねば、日本は押しよせる欧米列強の力に抗しえず彼らの植民地となると恐れたからだった。
 
特に薩摩藩と長州藩はともに単独で欧米と戦い、薩摩は英国と互角に戦ったものの、鹿児島城下を火の海とされた。長州は苦もなく欧米4カ国に下関を占領された。強力な中央集権国家の必要を痛感したのだ。
 
このため両藩に土佐藩などを加えた雄藩や幕府、朝廷による公武合体論が浮上し、将軍・徳川慶喜による大政奉還が実現した。しかしその途中、公武合体の試みとして1864(元治元)年に開かれた「元治国是会議」の失敗などを見た薩摩の西郷隆盛、長州の木戸孝允、革新派公家の岩倉具視らは政権から幕府を除くしか道はないと考え、「王政復古の大号令」による新政府の樹立と慶喜の事実上の追放を断行したのである。
 
この王政復古は、その名のイメージのような復古主義でも天皇親政を目指したものでは決してない。「大号令」が「神武創業の始に基づき」としたように、武家政治でも公家政治でもない全く新しい政治の樹立を宣言したのである。
 
維新は思いのほか、うまく運んだ。慶喜の自己犠牲もあって幕府は自壊、1871(明治4)年の廃藩置県によって中央集権制度が実現、さらに兵制、税制、学制の三大改革や殖産興業、さらに立憲制度導入によって近代化を整え、ヨーロッパの大国・ロシアのアジア進出を止める強国と姿を変えたのである
 
明治維新批判は、こうした維新による果実を全く無視、または過小評価し、その過程のみを批判した暴論だといえる。いや内心は評価しているのかも知れないが、大改革に参加しそこねた勢力の目を通してこれをやっかみ、異を唱えているようにも思える。
 
ひるがえって現代、メディアや野党勢力による安倍批判もこれに似通っているかに見える。安倍政権は憲法改正の不徹底さなど、もどかしい面もあるが、G7で主導的役割を果たしたり、デフレからの脱却に効果をあげたりするなど評価できる点は多い。とくに若い層の支持率は高い。だが、これに参加できていない野党やメディアはおもしろくない。だから森友、加計問題など無理筋を通して安倍降ろしをはかっている。こうした「やっかみ」から抜け出せないかぎり、明治のような力強い国づくりはできそうもない。