2018年08月16日(木曜日)
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天皇御製に学ぶ 第二十四回 四宮正貴

今上天皇御製
 
平成二十四年歌会始

津波来(こ)し 時の岸辺は 如何なりしと 見下ろす海は青く静まる
 
 天皇、皇后両陛下は、平成二十三年氏四月二十七日、東日本大震災の被災者お見舞ひのため、津波で壊滅状態になった宮城県南三陸町や仙台市を御巡幸あそばされ、被災者を励まされ、救援・復興関係者をねぎらはれた。
 
当時の報道によると、四月二十七日午後、南三陸町の小学校校庭にヘリコプターで降り立たれた両陛下は、佐藤仁町長から説明を受けられた後、瓦礫が散乱する沿岸部に向かって黙礼された。体育館での被災者お見舞ひの後、救助活動に当たる自衛隊幹部らにも謁を賜り、「ありがとうございます」と述べられた。同町を去る直前には、お二人でもう一度、町の跡に向かひ頭を下げられたと承る。
  
ヘリコプターで移動される間には、壊滅した漁港や養殖場が続く三陸沿岸を視察された。報道によると、同乗した村井嘉浩知事に、陛下は、津波で約7割の児童が死亡か行方不明となった石巻市立大川小の上空で「大変な被害でしたね。可哀想でしたね」と仰せられたと承る。
天皇皇后両陛下の慈しみ深き、御巡幸を拝すると自然に涙がこみ上げて来る。
 
 戦争直後、昭和天皇と香淳皇后は、全國各地を御巡幸あそばされ國民を励まされた。戦災復興は、昭和天皇の御巡幸が大きな力となった。東日本大震災の復興も、今上陛下の御巡幸が大きな力となっていった。有難き限りである。
 
天皇陛下は、平成二十三年三月十六日、「東北地方太平洋沖地震に関するおことば」を賜り、
「これからも皆が相携え,いたわり合って,この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。
被災者のこれからの苦難の日々を,私たち皆が,様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく,身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう,また,國民一人びとりが,被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ,被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています」
と仰せになった。
 
常に國民と喜びと悲しみを共にされるのが、歴代天皇の大御心である。今上陛下の「東北地方太平洋沖地震に関するおことば」を拝してもそれは明らかである。
歴代天皇の御製にも、常に民を思はれ、喜びも悲しみも民と共にされる大御心が示されてゐる。
天皇が、御巡幸あそばされ、國土の安穏、民の幸せ、五穀の豊穣を祈られることを「國見」と申し上げる。
 
 天皇が「國見」をされることは、天皇が行はれる國土讃嘆の農耕儀礼・祭祀であり、天地一新の行事である。祭祀主であり現御神である天皇が「國見」をされ祝福されることによって、國魂・國土が新たなる靈力を発揮し吹き返し新生する。天皇が「國見」をされることによって、國土は、國土生成の時の若々しい命の姿に復元し新生し豊かな稔が約束されるのである。そして五穀豊饒が實現する。
 
「國見」によって天皇の靈と各地の國魂(産土の神・鎮守の神)とが一体となって結ばれる。これを「魂触り」(タマフリ)と言ふ。この「魂触り」によって、天皇の神聖なる國家統治の霊的お力が益々増幅されるのである。これを「食國天下のまつりごと」といふ。
 
「天皇陛下は皇居で祭祀を行はせられてゐればいい」といふ主張があるが、これは「國見」の意義を正しく理解してゐない主張であると思ふ。まして、たとへ國體護持、尊皇の思ひからの主張であっても、臣下國民による「天皇は皇居にゐて頂くだけで良い」といふ発言に接すると、大きな違和感を覚える。
 
『朝日新聞』平成二十九年年五月二十二日号に次の記事が掲載された。
「二〇一一年の東日本大震災発生の一九日後、天皇、皇后両陛下の被災地見舞いは三月三〇日、福島県から東京に避難した人々が身を寄せていた東京武道館から始まった。…石原慎太郎氏が都知事として迎えた。翌一二年に心臓手術をする陛下の健康状態を知り『被災地は若い男宮の皇太子、秋篠宮両殿下を名代に差し向けてはいかがでしょう』と進言した。陛下は黙って聞いていたが、被災者見舞いを終えて武道館を出るとき、石原氏に歩み寄り、こう告げた。『石原さん、東北は、私が自分で行きます』。それまで石原氏は、首都の知事でありながら、園遊會や宮中晩餐會にあまり顔を出さなかった。珍しく両陛下を迎えた石原氏は陛下の言葉にあぜんとし、絶句した。その後、考えを変えた。『あれから東北三県に行かれて、みな感動した。行っていただいてよかった』と。両陛下は、大きな災害が起きるたびに被災地を訪れ、被災者を見舞った」。
 
石原慎太郎氏は、ナショナリストではあるが、尊皇精神は稀薄な人であった。しかし、今上陛下の民を思はれる仁慈の大御心に、石原氏は大きな感動を覚えたのである。まことに有難き事實である。
なほ付言すれば、この『朝日新聞』の連載記事に、天皇陛下に対し奉り敬語は全く使はれてゐないことはまことに遺憾である。
 
今上陛下は、平成二十八年八月八日の「お言葉」で
「私が天皇の位についてから,ほぼ二十八年,この間私は,我が國における多くの喜びの時,また悲しみの時を,人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず國民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」
と仰せになった。
 
「國民の安寧と幸福を祈る」とはまさに宮中祭祀の御事であり、「國民の傍らに立ち國民の声に耳を傾け國民の思ひに寄り添ふ」とはまさに「御巡幸」「國見」の御事であると拝する。今上陛下は古代以来の天皇のご使命を果たして来られたのである。
 
『朝日新聞』は、(昨年)平成二十九年七月二十五日号から二十九日号まで「平成と天皇 首相経験者に聞く」といふ連載記事を掲載した。「首相経験者に聞く①」(七月二十五日号)は、福田康夫氏であった。
 
福田康夫氏は、今上陛下の外国ご訪問に主席随員として御伴をしたことに関連して「陛下の外国ご訪問は、最高レベルの国際親善だ。一つの皇統でこれだけ続いている家系は欧州にもなく、他国の王室からは特別な家系だと敬意を表されている。陛下のご活動は外国でも国内でも同じ。常に変わらず一人ひとりの邦人に丁寧に声をかけることに特別の意味があると感じた」と語った。
 
三千年の歴史と伝統を保持する萬世一系の天皇の御稜威・御徳が、世界各国との友好そして世界平和に大きなお役目を果たしてきたのである。
「陛下の象徴天皇としての歩みについてどう感じていますか」といふ記者の問ひに対して福田氏は、「『天皇陛下は御簾の中で祈っていればいい』という意見もあるが。それは暴論だ」と答へた。
 
「御譲位問題」に関連して、「天皇陛下は祭祀を行はせられることがもっとも重要なお役目であり、全国各地の御巡幸あそばされ国民を励まされたり、外国ご訪問されることを控へられれば良いのではないか」といふ意見を表明される方がゐる。
前述した通り、天皇が各地を行幸されて国民を激励され天下の諸情勢をご覧になられる尊い行事を「國見」と申し上げる。古代の天皇は、國見を度々行はせられた。
 
ところが、武家が政治権力を壟断し一君万民の國體が隠蔽されると、天皇の行幸即ち「國見」はあまり行はれなくなった。
特に徳川時代は、幕府の干渉により、天皇は京都御所から一歩も外にお出になることができなかった。幕藩体制下における、天皇の行幸は、慶安四年二月二十五日、後光明天皇が後水尾天皇に「朝覲(註・天皇が太上天皇・皇太后の御所に行幸し、恭敬の礼をつくすこと)の行幸」を行はせられて以来、御所炎上などのやむを得ない場合のほか、文久三年(一八六三)三月と四月、孝明天皇が攘夷祈願のために賀茂社・石清水社に行幸されるまで、二百十三年間、行はせられることはなかった。
 
つまり、行幸が制限されたり、行はれなくなったのは、「一君萬民」の國體が隠蔽されてゐた時期である。明治維新によって、「一君万民」の日本國體が明らかになった後、明治天皇は全国を御巡幸あそばされた。そしてその伝統は、大正天皇・昭和天皇・今上天皇に継承された。
 
福田康夫氏の「『天皇陛下は御簾の中で祈っていればいい』という意見もあるが。それは暴論だ」といふ発言は全く正しいと考へる。
今上天皇が、御巡幸の御事を詠ませられた御製を掲げさせていただく。
 
平成十五年歌會始 「町」
我が國の 旅重ねきて 思ふかな 年経る毎に 町はととのふ
 
平成十六年歌會始 「幸」
人々の 幸願ひつつ 國の内 めぐりきたりて 十五年経つ
 
平成二十四年歌會始 「岸」
津波来(こ)し 時の岸辺は 如何なりしと 見下ろす海は 青く静まる 
 
國難の時期でも、権力闘争に明け暮れる政治家がゐる。しかし政治家・権力者に対する國民の不信が高まり、政治状況がいかに不安定になってゐても、上に天皇がおはします限り、日本國は安泰である。