2017年06月24日(土曜日)
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天皇御製に学ぶ  第三回 崇徳天皇御製 四宮正貴

天皇御製に学ぶ  第三回 崇徳天皇御製   四宮正貴

 

思ひやれ 都はるかに おきつ浪 たちへだてたる 心ぼそさを     

 

 香川県の白峰山に、第七五代崇徳天皇御陵が鎮まりまします。崇徳天皇は、鳥羽天皇第一皇子。諱(いみな)を顕仁(あきひと)と申し上げる。元永二年(一一一九)五月二八日御生誕。保安四年(一一二三)御年五歳にして御即位。崇徳天皇を寵愛された曾祖父君の白河法皇が大治四年(一一二九)に崩御され、さらに保延五年(一一三九)に、父君・鳥羽上皇に第九皇子・體仁親王が生まれられた。そして、崇徳天皇は永治元年(一一四一)、わずか三歳の體仁親王(第七六代・近衛天皇)に皇位を譲られた。父君・鳥羽法皇の御意向によるという。しかしその近衛天皇は久寿二年(一一五五)御年十七歳で崩御されたので、鳥羽天皇の第四皇子で崇徳天皇の同母弟であられる雅仁親王が御年二九歳で皇位につかれた。後白河天皇であらせられる。

 以上のような皇位継承の流れの中で、近衛天皇崩御の後、御自分の皇子(重仁親王)に皇位が譲られると思われていた崇徳上皇と、後白河天皇とが鋭く対立されるようになった。このことについて『保元物語』(鎌倉時代に成立した軍記物語。作者未詳)は「近衛院に位を押し取られて、恨み深くて過ぎし処に、先帝(注・近衛天皇)隠れ給ひぬる上は、重仁親王こそ帝位に備はり給ふべきに、思ひの外にまた四の宮(注・後白河天皇)に越えられぬるこそ口惜しけれ」と傳えている。また、この対立には藤原氏内部の対立が関係していたと言われる。

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