2017年12月15日(金曜日)
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今さら聞けない皇室の基礎知識 第七回「続・多すぎたり少なすぎたり、苦慮してきた先人たち」村田 春樹

幕末には宮家は実質二家のみ

 前号では四親王家(世襲親王家)の御創立まで述べた。まず応永十六年(一四〇九年足利三代将軍義満の頃)伏見宮家御創立あらせらる(以下御創立と略す)。次いで天正十九年(一五九一年豊臣秀吉の時代)桂宮家御創立。寛永二年(一六二五年徳川三代将軍家光の時代)に、三つ目の世襲親王家である有栖川宮家が御創立。そして宝永七年(一七一〇年)新井白石の建言により四つ目の世襲親王家として閑院宮家が御創立。嘉永六年(一八五三年ペリー来航)時点では、この四つの宮家以外の皇族は悉く門跡になって(出家して)しまっていたのである。慶應三年十二月の王政復古の大号令の時点では桂宮家は嗣子が無く淑子内親王が当主となっており、閑院宮家も当主が若くして薨去しており空位となっていた。伏見宮家は当主邦家親王が六十五歳と、当時としては高齢であった。唯一有栖川宮家の熾仁親王が三十二歳の働き盛りであった。熾仁親王は、当時十五歳で践祚後間もない明治天皇を補佐して新政府の総裁になり、ついで東征大総督となる。余談だが明治天皇には践祚された慶應三年一月から王政復古までの一年足らずだが摂政がいた。人臣最後の摂政二条斉敬である。その後明治二十二年の皇室典範で摂政は皇族に限ると定められ、大正十年には時の東宮(昭和天皇)が摂政になっている。

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