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《教科書で教えたい近現代史-改訂その6》 屈折した対日感情の韓国 ‼  そもそも韓国は戦勝国でなかった 鳥居徹夫(元文部科学大臣秘書官)

朝鮮半島の国は、南北とも日本に対して威勢高な姿勢をとる。日本に対してはウソをついても攻撃的となるし、北朝鮮は平気で日本人拉致を行ってきたし、韓国は朝鮮半島出身の慰安婦や徴用工を強制連行、強制労働などの被害者のように装い、日本タタキに余念がなく、世界中に日本の悪口をバラまいていた。

朝鮮半島の人々は、大陸中国の属国として隷従したが、その他には中国王朝に次ぐ優越意識があった。

つまり朝鮮民族は中国には従順だが、日本は格下と言うのであった。

ところが日本は、日清戦争で清国を屈服させ、日露戦争ではロマノフ王朝のロシアを撃破し、南下の野望を打ち砕いた。

かつての朝鮮半島の王朝は、ロシアの脅威にも関わらず植民地されることもなく主権を維持できた。そして日韓合邦もあって社会資本の整備が進み、産業や教育も発展した。それが冷厳な歴史的な事実なのである。

朝鮮半島の国家と国民性は、法治国家とは程遠く、国民感情が支配する「情治国家」ともいうべきであろう。それは日本と日本国民への劣等感の裏返しではないだろうか。

 

🔶朝鮮半島の人々は日本軍人として戦った 

いささか旧聞になるが、いわゆる「戦後70年」と言われた平成27(1915)年の9月3日、北京で行われた抗日戦争勝利記念行事に、韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領、プーチン大統領らが、共産中国の軍事パレード観閲式に出席し、習近平主席と天安門で並んだ。(役職は当時)

 そもそも韓国が、対日戦勝国というのは、歴史の捏造である。

明治43(1910)年に合併し日本の一地域となった朝鮮半島の住民は、先の大東亜戦争では大日本帝国として連合国と戦った。

にもかかわらず、初代大統領の李承晩(イ・スンマン、1875~1965年)は戦勝国=連合国入りを主張し、さらに長崎県・対馬や、島根県・竹島、そして九州全体までも韓国編入すら要求した。

しかし英国が、「韓国は日本と戦っていない」「朝鮮の人々は、日本として連合国と戦った」と異を唱えた。

サンフランシスコ講和条約の戦勝国入りは、国際法上も実態上も無理スジであった。米国など連合国は、日本の一地域として朝鮮半島をみなしていたのである。

そもそも日韓併合は、イングランドとスコットランドが、条約により合併し国名を「イングランド」と称したものと同様であり、武力による植民地化とは縁もゆかりもなかったことである。

朝鮮・韓国が植民地と言うのは誤りであり、逆に日本本土からの持ち出しが圧倒的に多かった。

だからこそ、朝鮮の人たちは日本軍将兵として戦った。朝鮮人の軍人・軍属は24万2000人以上。朝鮮人の高級軍人の目覚ましい武勇に触発され、志願兵の競争率は62倍強にまで沸騰した。

日本軍の将校を養成する陸軍士官学校や陸軍幼年学校は、朝鮮人へも門戸を開放していた。洪 思翊(ホン・サイク)中将に代表されるように、日本人を率いる朝鮮人将校も多数存在した。後に韓国大統領となった朴正熙(パク・チョンヒ、朴槿恵の父)も陸軍士官学校の出身である。

朝鮮半島出身者も2万1000柱の英霊が靖國神社に祭られている。

 イギリスが、李承晩大統領に異をとらえたのは、イギリスに内在するイングランドとスコットランドの問題と二重写しになることを怖れたからとも言われる。

 

🔶朝鮮半島は植民地ではなかった 

昭和40年(1965年)の日韓基本条約によって、名実ともに日本から韓国が(当時は朝鮮半島の唯一の政権、北朝鮮も含めて)分離独立したということを確認しあった。ちなみに韓国は、植民地化されたと誹謗している。

あの満州事変を調査した国際連盟のリットン調査団の報告ですら、「韓国併合条約」について、「植民地化(colonization)」ではなく、「統合(annexation)」という表現を使っている。

コロナイゼーション(colonization)は、「略奪」をイメージし、植民地化という場合に使われる。

一方、アネクセーション(annexation)は、「持ち出し」の意味に使われる。日本の血税が投入され、鉄道建設、治山治水、農業の技術指導など、生活は飛躍的に向上したのが事実である。

実際、大正13年(1923年)には、ソウルに京城帝国大学が創立された。これは大阪帝国大学、名古屋帝国大学よりも以前である。

 

🔶 日本との合併を望んだ朝鮮半島の人々、そして近代化が進み発展 

 明治の中盤、李氏朝鮮では、外圧の排除を唱えた東学党による農民反乱が起きた。朝鮮は清に救援を依頼し、清は朝鮮を属領と称し派兵を行った。

ところが清国は反乱鎮圧後軍も、朝鮮半島への駐留を続行し、明治27(1894)年に日清戦争が勃発する。

日清戦争で勝利した大日本帝国は、清国との間に下関条約を締結した。

 その直後にロシアの満州占領が起きた。ロシアの南下政策が、朝鮮半島の脅威となり、日露戦争となり、ロシアは敗北した。

日露戦争後に、朝鮮は日本との合併を選択した。

これは、朝鮮と日本との間の国際的合意のもとで、条約を締結し行なわれ、世界の多くの国々が賛成し承認した。武力によるものではないし、もちろん血が流されていない。

日本人と朝鮮人の間には良好な関係が築かれた。

多くの朝鮮人が、志願してまでも「日本人とともに戦いたい」と願った。彼らの中には特攻隊の隊員となって散った人々もいた。

日本は、欧米列強の行なってきた搾取型植民地支配とは異なり、不毛の地に国家財政が傾くほどの先進的生活基盤を重点整備、朝鮮人を日本人とし、ハングル語の普及に努め、エリート教育にも力を注いだ。

日本と韓国との合併により、日本政府は、階級による身分差別を撤廃し、両班(ヤンパン)による搾取・虐待から農民を救い、移住の自由を認めさせ、残酷な拷問や刑罰や一族の罪人連座法などを廃止し、女性再婚の自由を保障し、人権尊重などの法治国家の基礎をつくり、学校教育制度を導入し、読み書きを教え、ハングル文字を復活・普及させた。

そして85%の朝鮮人には創氏改名を許可し、鉄道網、道路網を整備し、港の開設工事をし、水力発電所を建設し、重化学工業を興した。

さらには緑化政策によって山野を甦らせ、不毛の地を開拓し、河川大事業で洪水を減少させ、水田を倍増させた。

そして世界中から世界一不潔と言われた町々を清潔にし、近代医療制度を導入し、平均寿命を24歳から45歳にのばし、人口が2倍になり、内地(日本本土)へはパスポートなしで移動でき居住できたのであった。(詳しくは、崔基鎬著『歴史再検証・日韓併合の真実』2007年祥伝社刊を参照)

 

🔶 竹島を不法占領した李承晩、日本漁民への銃撃も 

昭和20(1945) 年に日本は、武装解除した。

アメリカから韓国へ戻ってきた李承晩(イ・スンマン1875~1965年)は、韓国初代大統領となり韓国を支配するようになった。

李承晩が、韓国初代大統領の地位につくと、親日派の人々を追放し、もはや反日でなければ韓国では生きられないようにした。

 家庭でも学校でも職場でも、親日的発言はすべて禁止された。

虚偽と捏造によりゆがめられた歴史観が学校で教え込まれ、すさまじい反日教育の中で育てられていった。

そして今日の韓国の反日主義が形成された。

李承晩大統領は、昭和27(1952)年1月18日、突如として海洋主権宣言を設定した。

広範な海域にいわゆる李ラインを設定し、日本漁船の立ち入りを禁止し、朝鮮半島周辺(最大200マイル)の水域内に存在する、すべての天然資源、水産物を利用する権利を主張した。

サンフランシスコ講和条約の3ヵ月前である。

李承晩大統領は国際法のルールを無視した「李承晩ライン」という領海線を勝手に引き、そして李承晩ライン内にある竹島を韓国領土だと主張してこれを占領した。

当時の日本は、アメリカの統治下(軍事占領下)にあり、武装解除した日本に軍隊はなかったので、安心して竹島を無血占領できたのである。

日本が歯向かわないとわかっているからこそ、韓国は暴挙に出た。

もちろん日本側は、この李ラインを認めなかったことはいうまでもない。

昭和40(1965)年の日韓漁業協定で李承晩ラインが廃止されるまで、韓国軍による日本漁船の拿捕が続いたのである。

この李ラインによって、韓国は328隻の日本漁船を拿捕して、3,929人の漁船乗組員を抑留し、銃撃などによって44人が殺害された。

 

🔶 自国民を大虐殺した「四・三事件」 

それところではなく、李承晩は、自国民に対してもテロ・虐殺を行った。

南朝鮮労働党が済州島島民の反政府武装蜂起(人民遊撃隊など)に関与しているとして、済州島に治安部隊を送り、島民もろとも虐殺した。いわゆる「4・3事件」である。

さらには、朝鮮戦争の際に、無辜の民を大量虐殺した国民保導連盟事件があった。

保導連盟とは、共産主義者が転向し、韓国に忠誠を誓う人々と家族を再教育・統制すべく立ち上げられた(思想)保護観察組織である。

ところが、朝鮮戦争(1950~53年休戦)の勃発で国民保導連盟の加入者名簿は虐殺リストに変わる。北朝鮮軍がソウルに迫るや初代大統領・李承晩大統領は国民や韓国軍将兵を見捨てて逃亡した。その際に保導連盟登録者を“危険分子”として処刑するよう軍・官憲に命じた。

北朝鮮の工作員も紛れていたとはいえ、大多数は無辜の民であった。

ついでに政権に目障りな人々も抹殺し、虐殺の罪を共産主義者に着せていた。

韓国紙によれば、60万人から120万人が虐殺されたとしている。

そのため、おびただしい数の韓国人が難を逃れ、日本に密入国し、大半が居座った。今日では、日本には朝鮮半島出身者が約60万人もいる。

この事件はタブー視されており、韓国政府の失政から目をそらすために、韓国政府は反日教育を強化したのではないか、とも言われている。

 

🔶 韓国の対日感情は、ユダヤに対するナチスと同じ 

韓国は「歴史の不完全燃焼」に身悶えるだけで、コンプレックスを癒やせない。取り憑かれたような情念で日本を「口撃」している間は、不都合な史実は目立たない。そのため韓国の為政者の反日カードは、国家戦略であり続ける。

それは、多くの韓国指導者が持つ日本へのコンプレックスからである。

朝鮮半島は、日清戦争で清が敗北するまで、中国大陸の王朝の属国であり、朝貢を余儀なくされてきた。いわゆる「華夷秩序(かいちつじょ)」で、中国が世界の文化,政治の中心であり,他に優越しているという意識である。

伝統的に漢民族の居住する黄河中下流を中原と称し、異民族を夷狄 (いてき)、あるいは蛮夷と呼んできた。

異民族は、大陸の王朝によって東夷,西戎,南蛮,北狄と呼ばれていた。

朝鮮民族は、中原の東隣にあり、中国には従順だが、中国王朝に次ぐ優越意識がある。

日本列島は中国大陸からの遠く離れた地であり、朝鮮半島を通って日本列島に農業や文化が伝わったとする思い込みが、朝鮮民族には激しい。

朝鮮民族の方が日本より優越性を持ちたいという意識が潜在的にあるのだろう。

ところが日本は、明治維新で近代化に成功し、日清戦争で清王朝を破り、また日露戦争でロシアを撃破したのである。

とりわけ日露戦争は、有色人種が白色人種に勝利した戦争であった。

そして植民地支配下にあった多くのアジア、アフリカの人々に勇気を与えた。

これはまさに、韓国の指導者にとっては恥辱であった。

この屈折し鬱積した指導者層の感情は、昭和20(1945)年に日本が武装解除したことを機に、戦勝国であり宗主国でありたい意識となった。

サンフランシスコ講和条約で、李承晩大統領が戦勝国入りを強く要望し、そのうえアメリカなど連合国に、対馬や竹島、九州全体まで韓国の領土とするよう要求するというエスカレートぶりであった。

韓国にとって、日本が何事においても韓国より優れていることは、民族性が許容しない。

ましてや70年前まで日本と同一国家であった朝鮮半島が、日本により近代化と発展したことは、韓国の歴史から消し去るべき「不都合な真実」なのである。だからこそ韓国の指導者にとって「反日」が武器になる。

親日的とされた朴正煕は射殺され、また全斗煥は一族郎党とも逮捕され粛清された。

この2人の大統領は、日本から多くの経済支援を引き出したが、韓国指導者は、この事実を抹殺したいのである。

この韓国指導者や、韓国民の民族的コンプレックスは、ユダヤ人に対するドイツ人の感情に似ているのではないか。

優秀なドイツ人よりも、ユダヤ人がもっと優秀であり、世界中の金融を動かし、科学技術に優れていたからである。

ユダヤ排撃のナチスが、ドイツ国民の支持を受け政権を獲得した後に、数百万人のユダヤ人をガス室で殺害したのである。

まさにそれは、ユダヤ人抹殺を図ったホロコーストであり、ジェノサイドであった。

韓国民の日本国および日本人への感情は、まさにユダヤに対するナチスと同じ憎悪に満ちたもの、というのは言い過ぎであろうか。

日本は、聖徳太子以来、中国大陸の王朝や朝鮮半島との外交関係に苦慮し続けてきた。

日本が「日の出ずる国」であり続けることは、中国大陸や朝鮮半島の支配者にとって、ガマンならぬことなのである。

この異様で難しい民族との付き合いが2000年以上も続き、苦労してきたことを、私たち日本国民は改めて直視することが問われている。