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戦後八十年か昭和百年か ―反戦プロパガンダを乗り越え、歴史の断絶を再び繋ぐために 里見日本文化学研究所所長 亜細亜大学非常勤講師   金子 宗德

 NHKの特集アニメ

 昭和二十年八月十五日にポツダム宣言受諾の玉音放送が流れてから今年は七十八年目、再来年の令和七年は「戦後八十年」の節目にあたる。

 インターネットで「戦後八十年」と検索してみたところ、NHKのウェブサイトに「太平洋戦争の終戦から80年を迎える2025年に向け、NHKは特集アニメ『cocoon(コクーン)』を制作します」といふプレスリリースが掲載されてゐた。

 その一部を引用する。

 

 原作は沖縄戦に着想を得た今日マチ子さんの同名漫画「cocoon」。

島に生きる少女の目を通した『戦争』を繊細なタッチで描いた作品です。

 戦後80年の節目の年、幅広い世代があらためて『戦争』について考える作品を世に届けたい。

  そんな思いから、「cocoon」のアニメ化を決定しました。

 アニメ「cocoon」はアニメーションプロデューサーに元スタジオジブリの舘野仁美さんを迎え、次世代への良質な動画の技術・知識の継承を目的として、若手アニメーターとベテランアニメーターの力を結集して制作します。

 

 原作者の今日マチ子は、昭和五十五年生まれ。都内有数の進学校である女子学院中学・高校から東京藝大美術学部先端芸術表現科に進学したといふ経歴の持ち主。文化庁メディア芸術祭で審査委員会推薦作品に選ばれた当該書籍を電子版で読んでみたが、従軍看護婦となつた少女の目を通して沖縄戦を描いたもの。少女を「羽化」=「大人になる」前の蛹に擬へ、彼女たちを暖かく守る「cocoon」=「繭」といふ平和が戦争によつて破壊されていく様子を描く作品には独特の叙情性はあるものゝ、その底流にあるのは作者自身も「あとがき」で認めてゐるやうに「戦争は怖い」といふ感情のみで、戦争を引き起こす人間の共業に切り込んだり、不条理な状況に置かれても自己を犠牲にして祖国を護らうとした壮烈な精神を描くことはしない。「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」と詠んだ寺山修司の強い影響を受けたといふ彼女に、それを期待するだけ無駄であらう。

 プロデューサーの舘野仁美にしても、その映像技術は評価に値するのかもしれぬが、戦後民主主義の申し子たる宮崎駿が創設したスタジオジブリに籍を置いていたといふことからして、根底にある発想は推して知るべしであらう。

 こゝにNHKが絡むのだから、どんな作品が出来上がるか容易に想像がつく。「幅広い世代」に向けたものと言っても、アニメ作品であることからして、純真である一方で判断力の乏しい未成年層を主たるターゲットと見なしてゐることは間違ひなからう。加へて、原作に文化庁のお墨付きがあるため、学校で視聴される可能性も高い。非常に上手い仕掛けだ。

 

 大東亜戦争の全体像

 これから再来年にかけて、このアニメ「cocoon」と同じく、「『戦争』について考へる」企画が様々な形で展開されるであらう。

 平和を願ひ、戦争を厭ふ心情を否定するつもりはないが、そもそも、私たちは大東亜戦争について何を知つてゐるのか。戦場や空襲などについて「語り部」が話す内容は事実だらうが、個人的体験である以上、いくら苛烈で悲惨であらうとも、それで戦場や空襲の全体を理解した気になつてはならない。同様の体験をしたものゝ、左派リベラル主導のメディアや学校などによる安直な反戦プロパガンダの道具とされることを嫌つて口を閉ざしたものも居るからだ。

 さらに云へば、戦争には相手がある。プロイセンの将軍・クラウゼヴィッツは『戦争論』において「戦争は外交の延長である」と述べたが、他国との利害調整といふ意味では戦争も外交も同じであり、違ひは武力行使を伴ふか否かである。一方が武力を行使すれば、当然のことながら相手も反撃の武力を行使する。結果として、武力行使の応酬となり、多くの人命や財産が失はれてしまふ。それゆゑ、武力行使は出来るだけ避けるべきことは云ふまでもないが、共業として生じてしまつた以上、生じた悪を受け止めて善果を得ようと努力するしかない。

 もちろん、大東亜戦争開戦に至る過程や戦術の巧拙を巡り、相手の動きも含めて多角的に解明することは重要である。昨今、陸軍秋丸機関の研究成果が明らかになるなど日本側の動きに関する新たな発見があつたほか、支那や欧米、さらにはコミンテルンの動きに関する研究も進む中で、満洲事変を起点とする侵略戦争=十五年戦争の一環といふ構図は破綻し、錯誤と謀略とが複雑に絡み合ふ中で一連の戦争が展開されたと理解するのが妥当と思はれる。

 けれども、さうした最新の研究成果は一部にしか共有されてをらず、マスメディアや教育現場では未だに十五年戦争論が横行してゐる。さらに、戦争を体験した世代が相次いで亡くなる中で、家庭など内輪で密かに語られてきた、反戦プロパガンダと相容れない戦争に関する本音を耳にする機会がなくなつた。

 その結果、四十代以下、中でも学校教育を鵜呑みにした者は、反戦プロパガンダを相対化する契機を持たぬまゝ、自分たちの生きる現代を敗戦以後の歴史とのみ結び付け、それ以前、とりわけ戦前について、現代と無関係で理解困難な時代といふ観念を懐いてゐる。

 

 「昭和百年」記念事業の提唱

 とは云へ、ウロ事変を契機として、かうした反戦プロパガンダの効力は薄れつゝある。といふのも、ウクライナにロシア軍が進攻する様子を見て、他国に攻め込まなければ戦争の当事者にはならぬといふ前提が崩れてしまつたからだ。財源についてはともかく防衛費を増額するといふ岸田内閣の方針に反対する声は大きくなつてゐないことを見ても、自国が侵略されるといふ可能性を意識する国民が増えてきたと云へるだらう。昨年末のテレビ番組でタレントのタモリが「新しい戦前」といふ表現を用ゐたことが話題になつたけれども、これもまた、民心の変化を反映してゐるのではないか。かうした動きを踏まへ、国体を擁護せんとする我らは、反戦イデオロギーによつて断ち切られた歴史を再び繋ぐ動きを展開せねばならない。

 とは云へ、左派リベラルも新たな手を繰り出してくるに違ひない。冒頭で触れたアニメ「cocoon」も、その一環と見做すべきだ。

 これに対して、我らは如何に対応すべきか。これまで、我らは大東亜戦争の正当性を強調し、敗北したと雖も闘ひ抜いた先人に対する敬意を表明すると共に、敗戦によつて断ち切られた伝統を恢復すべしと強調してきた。これ自体は後世に生きるものとして当然の責務であり、今後とも続けていく必要があるけれども、来たる「戦後八十年」において、同様のスタンスで運動を展開するだけでは、反戦プロパガンダの強い影響を受けてきた若い世代の関心を引くことは困難と思はれる。もつと踏み込んで云へば、「戦後~年」といふ社会的枠組に囚われてゐる限り、戦後民主主義に基づく反戦プロパガンダの影響力を削ぐことは難しく、歴史認識における主導権を左派リベラルから奪還することは困難であらう。

 そこで、一つ提案がある。「戦後八十年」にあたる令和七年の翌年・令和八年は、大正から昭和に改元されてから満百年の節目にあたる。この「昭和百年」に合はせて昭和の御代を回顧する事業を様々な形で展開しては如何であらうか。それによつて、大東亜戦争の前後で歴史は断絶してゐない、ひいては、それ以前の歴史と現代とは繋がつてゐる、といふことを社会全体で確認する。つまり、「昭和百年」を強調することで「戦後八十年」を上書きするのだ。

 昭和四十三年の「明治百年」に際しては、二年前の昭和四十一年に政府の下に明治百年記念準備会議(首相ら政府関係者・各界代表・学識経験者からなる)が設置され、各種の記念行事や事業が企画・実行された。その中心的な行事が明治改元の日に合はせて十月二十三日に武道館において開催された明治百年記念式典であり、昭和天皇・香淳皇后の臨御・台臨を賜つたほか、皇族・閣僚・国会議員・在日外交団・各界代表・青少年代表ら約一万人が参加したといふ。これに倣へば、明年の令和六年に昭和百年準備会議を発足させ、昭和改元の日に合はせて令和八年十二月二十五日に盛大な記念行事を実施するといふことにならう。政府だけでなく、地方自治体レベルでも何らかの記念事業がなされるのが望ましい。

 民間でも各団体が様々な行事を企画することも考へられよう。これは各団体が奉ずる歴史観に基づいて自由に行へばよい。昭和維新運動や三島事件を再評価する契機となるだらう。かうした動きに対して左派リベラルから反対の声も上がるだらうが、それも盛り上がりに花を添えるものと考へればよい。

 如何であらうか。読者諸兄姉の御意見を伺へれば幸ひである。