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【今さら聞けない皇室の基礎知識】 「皇居の歴史 その2」 村田春樹(今さら聞けない皇室研究会顧問)

先月号から皇居の歴史について語っている。江戸城の天守は初代将軍家康の慶長天守(一六〇七年)、二代秀忠の元和天守(一六二三年)、三代家光の寛永天守(一六三八年)と三代あった。いずれも大坂城を凌ぐコンスタンチノープル以東最大の城塞だった。しかし三代目の寛永天守は明暦の大火(一六五七年)で完成後僅か十九年で全焼してしまう。爾後今日に至るも江戸城に天守はない。さてその後の話しに入る。

明暦の大火の翌々年万治二(一六五九)年に本丸は再建された。こうして天守無き江戸城がスタートしたわけであるが、延享四(一七四七)年に西の丸御殿焼失(翌年再建)安永元(一七七二)年巽櫓等焼失、天保九(一八三八)年西の丸御殿全焼、(翌年再建)弘化元(一八四四)年)本丸御殿全焼(翌年再建)、嘉永五年西の丸御殿全焼(翌年再建)つまり黒船来寇の直前、江戸城は相次いで火事に見舞われていたのである。さらに安政六(一八五九)年、再建されたわずか一四年後に本丸御殿は全焼する。この年は安政の大獄である。余談だがこの災難に先立つこと四年、安政の大地震があり、前年にはコレラが江戸市中に大流行している。江戸幕府衰え、大政奉還に至る理由には、地震火事疫病といった災害の多発も大きかったのではなかろうか。もしそれらがなかったら、明治維新はなかったかもしれない。歴史は偶然の累積・産物であり、必然ではないのだ。さて焼失の翌年万延元年本丸御殿は再建されるが、なんと文久三(一八六三)年本丸御殿西の丸御殿共に焼失してしまう。本丸御殿は再建後僅か三年、西の丸御殿は再建後十年で焼失したのである。度重なる不運に幕閣は天を仰いだことだろう。それはさておき、翌年元治元(一八六四)年に西の丸御殿は再建される。最後の将軍慶喜はこの西の丸御殿に入城したわけである。そして慶應三(一八六七)年、大政奉還となるが、本丸御殿は遂に再建されることはなかった。

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