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「昭和天皇全国巡幸」 村田春樹(今さら聞けない皇室研究会顧問)

昭和天皇は昭和二十四年五月九州北部を巡幸された。「二十七日長崎医大附属病院の二階廊下に於いて、白血病でベッドに横臥する同大学教授永井隆博士を慰問され、またその子女二名に御言葉を賜う」(昭和天皇実録第十巻)永井隆博士は原爆直後自ら瀕死の重傷を負うも被災者の看護治療に寝食を忘れて尽くしたことで有名である。原爆で令室は即死している。このときの状況を書いた随筆「長崎の鐘」が昭和二十四年一月に上梓され、空前のベストセラーになった。四月には古関裕而作曲サトウハチロー作詞藤山一郎歌でレコードが作られ、七月に発売され大ヒットとなった。翌二十五年九月には松竹により映画化されこれまた大ヒットとなった。

こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

こころの罪を うちあけて
更けゆく夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

  

さて昭和天皇が永井博士を見舞われたときのお二人の対話である。

昭和天皇「どうですご病気は」

永井博士「ありがとうございます。 ずっと元気でございます」(勿論ベッドから起き上がれないほどの病状だった)

昭和天皇「早く回復してください。あなたの書物は読みました。」

昭和天皇は傍らの男の子(十四)女の子(九)に

「しっかり勉強して立派な人になってください。」

博士は次の様に述懐している。

「陛下のおっしゃってくださるお言葉だけでなく、全身の表情から私はいつも顔つきあわせている、隣人のような親しいものを胸に感じた。私はあの細やかな心づかいをして、どんな小さなものもいたわられる愛情と御態度こそ今の私たち日本人が毎日の生活にまねをしなくてはならないと思う。今日本人はお互いに分離しているが陛下がお歩きになると、そのあとに萬葉の古い時代にあった、なごやかな愛情の一致が、甦って日本人が再び結びつく。」

博士はさらに続ける

「天皇陛下は巡礼ですね、形に洋服をお召しになっていましても、大勢のお供がいても、陛下のお心は、わらじばきの巡礼、一人寂しいお姿の巡礼だと思いました。」

そして短歌を二首詠んでいる・

「天皇は神にまさねば私に病いやせとじかにのたまふ」

(解説 天皇陛下は今では神ではなく人間におなりになったからこそ、私ごとき者に直接早く治れよとお言葉をおかけになるのであろう、神ならば私ごときものに直接お言葉をかけるなどということはなかったのではないか、ありがたいことだ)

「原子野に花咲ききたるうるはしさ見る天皇は安けきたまふ」

(解説 原子爆弾が投下され焼け野原になったこの長崎のまちにも今では再び花が咲き国は安泰です。その花の麗しき様子をご覧になる天皇も御安泰でいらっしゃいます、我が国は大丈夫ですよね。解説はいずれも佐藤健二氏による)

博士は島根県立松江中学(旧制)に摂政宮殿下(のちの昭和天皇)が行啓された際に、級長首席として間近に拝礼をしている。また博士は満州事変シナ事変に軍医として出征、敵味方区別無く危険を冒して治療に奔走、その功により金鵄勲章を受賞している。若くして受洗して洗礼名パウロを名乗っており。夫婦共に熱烈なカトリックであった。戦争中は「この戦争は何としても勝たねばならぬ、お国の為陛下の為に」と婦人会の竹槍指導等にも熱心であった。原爆被災者への身命を賭した救援活動も、まさにカトリックとして皇国臣民として当然のことであったのだろう。昭和天皇のお見舞いの数日後には日本に運ばれていたフランシスコ・ザビエルの聖腕に接吻し、ローマ教皇特使ギルロイ枢機卿の見舞を受けている。

翌昭和二十五年五月にはローマ教皇特使フルステンベルク大司教が見舞いに訪れ、ロザリオを下賜される。数日後博士は「イエズス、マリア、ヨゼフ、わが魂をみ手に任せ奉る」と祈り、駆けつけた息子から十字架を受け取ると「祈ってください」と話した直後に息を引き取った。享年四十三。

博士は若いときから終始熱烈なカトリック信者だったが皇室を深く尊敬していた愛国者でもあった。そして昭和天皇と終始心の交流があったのだ。ところが今、博士の長崎にある記念館(如己堂)にはこの素晴らしい随筆、すがすがしい短歌二首は跡形もないそうである。私の親しい畏友は「如己堂」を何回も訪れたそうだが、昭和天皇と博士の交流など全く知らなかったと言っている。今日本のカトリックの世界は「カトリック正義と平和協議会」なる極左反日反皇室反靖国団体に牛耳られている。彼らはどす黒い悪意で、如己堂から「佳話」を追放したのだろう。歴史修正主義者とは彼らの謂いである。(続く)