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軍を名乗る極左組織 但馬オサム(文筆人)

「われわれは明日、羽田を発たんとしている。われわれは如何なる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が内から湧き上がってきた事を知らない。……最後に確認しよう。われわれは明日のジョーである」(よど号グループ声明文)

 いわゆる「左翼」=反戦平和主義、非武装主義という通俗的なイメージがいかに欺瞞的なものであるかは、これを読まれている読者にはご理解いただけているかと思う。今でこそ「9条は宝」などとのたまり、護憲の旗頭のように振る舞う日本共産党だが、戦後しばらくコミンテルンの指導下にあった彼らが「武力の放棄」を含む現憲法の制定にもっとも強く反対していた事実はすっかりないものにされている。昭和21年8月の衆議院本会議で、日本共産党第一書記長野坂参三は、政府提出の憲法案について「我ガ国ノ自衛権ヲ抛棄シテ民族ノ独立ヲ危クスル危険ガアル」空文であると批判し、「ソレ故ニ我ガ党ハ民族独立ノ為ニ此ノ憲法ニ反対シナケレバナラナ」とまで言っている事実を志位委員長はどう思うのだろうか。

「政権は銃口から生まれる」とは毛沢東の言葉だが、そもそも武力を持たない共産主義組織など存在しえない。かつての社会主義国を見れば容易に理解できることだ。

 筆者は、その思想性や行動はともかく「赤軍派」という呼称には好意という意味の共感を覚える者である。新左翼の一派で堂々と「軍」を名乗り武装闘争による世界革命を標榜する、そこには日教組的左翼、堕落した現日本共産党の掲げる平和主義的欺瞞性はないからだ。事実、彼らは組織内で小隊、中隊といった旧軍の呼称をそのまま用い、地方の学生をオルグすることを「徴兵」と呼んでいたそうである。

 ついでにいえば、彼らが、国家に属さない「軍」としてこの国土に存在するなら、国体および国民の生命財産を守るための、本来の意味での国軍の存在も認めざるをえないという理屈も成り立つ。つまり、新左翼自らが行動をもって、進駐軍憲法を文字通り空文であることを証明してくれることになるのだ。私設の軍隊を鎮圧する役目を担うのは公的な軍隊において他におらず、故に自衛隊は晴れて国軍と呼ばれるのである。

 三島由紀夫が先鋭化する新左翼運動に期待していたのはまさにそれだった。しかし、「その日」はついに来ることはなく、現在にいたっている。

 

失敗に終わった「大阪戦争」「東京戦争」

 

 共産主義者同盟赤軍派が、関西ブント活動家の塩見孝也(京都大学医学部中退)を議長に神奈川県城ケ島で産声を上げたのは1969年(昭和44年)4月。三島事件の前年のことであった。

 結成にあたって彼らは、「環太平洋革命戦争」を理念上の目標に掲げている。これは、日本を世界革命の拠点・最高司令部とし、革命の最大の敵であるアメリカ帝国主義との間に戦争を起こし、これに勝利し世界革命を遂行すべしという大それたものだが、なんのことはない、石原莞爾の『最終戦争論』の左翼的翻案に過ぎない。以前も述べたかと思うが、戦前の右翼といわれる人たちのイデオロギーがいかに、新左翼と知的親和性があったかの証左であろう。大亜細亜主義も二二六事件の皇道派も一人一殺の血盟団にしてもその主張は、今の視点から見て多分に左翼的といえる。戦前の右翼と新左翼の違いは一転、天皇を中心に据えるかいなかの一点であった。有神論・無神論という言葉にならえば、有天皇的革命論が戦前の右翼であり、無天皇的革命論が新左翼と言い換えることもできよう。

 ちなみに元赤軍派中央委員で日本赤軍の主要メンバーとして数々のテロ事件に関与し、現在投獄中の重信房子の父・末夫は血盟団同志であった四元義隆の門下生である。重信はこの父親から多大な思想的影響を受けたともいわれている。

 同年9月、赤軍派は手始めに「大阪戦争」「東京戦争」を立案する。これは両都市で同時多発的に交番、警察施設を襲撃、警察力を分散させた上で学生や日雇い労働者に蜂起を促すというもので、「戦争」と呼ぶにはいささかスケールの小さい騒乱闘争だった。こういった大仰な名称を好むのも、当時の過激派の特徴といえる。

 実際、彼らの計画は警察に察知されており、「大阪戦争」のための工作アジト・アパートはことごとくガサ入れされ、メンバー47人が検挙、犯行は交番2か所に火炎瓶が投げられるにとどまった。東京では日大紛争に紛れる形で警察庁富士見署に火炎瓶が投擲されたものの、メンバー一人の現行犯逮捕という締まらない結末に終わっている。

 

大菩薩峠事件をきっかけに「国際拠点地論」へ

 

 大阪・東京の両「戦争」の失敗で、組織が「軍」の態をなしていないことを露呈した彼らは、本格的な武装訓練の必要性を痛感、山梨県甲州市塩山上萩原(旧塩山市)と北都留郡小菅村鞍部にまたがる標高1,897メートルの大菩薩をその地に選んだ。中里介山の時代小説のタイトルでも知られる大菩薩峠は、地形の変化に富み、また時折り濃霧の発生を見ることから、潜伏、訓練にはもってこいこいの場所と考えられたのである。

 当初は、ここで軍事訓練を施したメンバーを8つの部隊に分け、鉄パイプ、火炎瓶、爆弾で武装、ダンプカー5台に分乗して首相官邸、警察庁を襲撃する計画だったが、これらもすべて当局には筒抜けの状態であった。同年11月5日早朝、メンバーが潜伏中の山荘・福ちゃん荘に、警視庁と山梨県警合同の機動隊が突入、その場にいた53人が凶器準備集合罪で検挙され、一挙に戦力はそがれてしまうのである。これが世にいう大菩薩峠事件のあらましだ。

 大打撃を受ける形になった赤軍派だが、検挙→組織の一時的な弱体→先鋭化という、過激派グループの法則は彼ら赤軍派にも無縁ではなかった。

 もはや作戦拠点を国内だけにとどめるには目標達成にはおぼつかないと判断した赤軍派は、「国際根拠地論」を新たに提唱するのである。これは海外の社会主義小国(当初はキューバを念頭に入れていたともいわれる)に革命の拠点を置き、そこから日本国内の暴力革命を誘導、さらに第三世界の民族解放戦線にも呼びかけ、一気に世界革命戦争の導火線に火をつけるというもので、今から見れば実に夢想的なシナリオだが、過激派新左翼が海外に目を向けるきっかけとなった理論ということで、やはり特筆べきだろう。以後、日本産のテロリストは海を越え、中東で欧州で、あるいはアジアで、数々の暴力事件を起こしていくのである。

 のちに明らかになるが、大菩薩事件でメンバーの大量逮捕を見た直後、赤軍派リーダーの塩見孝也は、小俣昌道(京都大学全共闘議長)を密かに羽田から飛び発たせていた。当時、アメリカでは、ウエザーマンとかブラック・パンサーといった新左翼系の過激組織が銃や爆弾を用いてのテロ騒乱路線を突っ走っており、塩見はこれら海外過激派と連携する形で「世界赤軍」の構築をもくろんでいたのである。この過激派の国際ユニオンはある程度、現実的な形を見ることになるのだが、それについては次号で触れてみたい。

 ちなみに、ウエザーマン(weatherman)(天気予報官)は、主に白人の裕福層学生によって組織された爆弾テロ・アナーキズムのグループで、組織名はボブ・ディランの曲『サブタニアン・ホームシック・ブルース』の一節「風向きを知るのに天気予報官はいらないさ」から取られている。ブラック・パンサー(black panter party)は日本では「黒豹党」の名称でも知られた黒人解放運動組織。毛沢東主義に啓発され、黒人民族主義ともいうべき急進的で暴力的なブラック・パワー運動を展開していた。

 

塩見孝也逮捕と「フェニックス計画」

 

 1970年(昭和45年)は赤軍派の名を世に知らしめる記念すべき(?)年となった。

 その前兆として、3月4日、岩手県水沢署に猟銃や散弾を盗んだ疑いで逮捕された元自衛隊員(23)が「赤軍派の武器調達を頼まれていた」と自供するというショッキングなニュースが飛び込んできた。「元」がつくものの、自衛隊の隊員にまで過激派のオルグが進んでいるという事実は、警察関係者を震撼たらしめている。

 3月15日には、ついに赤軍派のリーダー・塩見孝也が逮捕。前田佑一(中央大学)とともにタクシーで東京駒込駅に向かう途中、警察に呼び止められ逃亡虚しくお縄になっている。塩見は、前年11月の「国際反戦デー」で爆弾テロを計画、東京薬科大内で鉄パイプ爆弾を製造したかどで指名手配中であった

 赤軍派首領の逮捕は、警察当局にひとときの安堵を与えたが、押収した塩見の手帳にある「HJ」の文字の意味を最後まで解読することができなかったことは、彼らにとって痛

恨となるのである。

「HJ」とはすなわち、hijack(ハイジャック)のことだったのだ。実は、塩見と前田は逮捕される直前まで、田宮高麿ら、のちに「よど号グループ」と呼ばれるハイジャック実行犯らと最終会合をもっていたのである

 赤軍派内では、日本初となる飛行機乗っ取り計画を「フェニックス計画」という秘匿名で呼んでいた。1月初め、赤坂東急ホテルで赤軍派幹部14人を集めた「中央委員会」において、田村の口から同計画の全容が明らかにされている。幹部の中には重信房子の顔もあったという。

 

 

 

 塩見議長の逮捕は当然、赤軍派内に動揺を及ぼした。自身の身辺にも捜査が及ぶことを恐れた田宮高麿をリーダーとする実行予定グループは、急遽計画の実行を前倒しにし、決行を3月27日とした。しかし飛行機に乗り慣れていなかったメンバーの一部が遅刻したために計画を再変更。実行は4日後の3月31日に延期されることになった。

 どうも赤軍派は、計画の設計図こそ壮大だが、細かいチョンボが目立つようだ。少なくとも「軍」としてはこれは致命的だろう。

 そもそも亡命先に朝鮮民主主義人民共和国を選んだのは、日本帝国主義と敵対している国ということで、必ずしも同国の体制およの主体思想を熟知していたわけではなく、メンバーたちは、入国してから初めてその全体主義と金日成に対する異常な個人崇拝に接し、亡命を後悔したという。また、メンバーの中に誰一人、朝鮮語に通じた者はおらず、そればかり英会話の能力にも乏しい者ばかりで、これで旅客機を乗っ取ろうというのだから、計画自体が無謀ともいえた。乗っ取りが成功したのは多分に運が作用したとしかいいようがない。なお、グループがコクピットに航路変更を要求する際に見せた地図は、中学校の地図帳のコピーだったという。

 

 

 とにもかくにも、計画は実行された。

 3月31日、乗員7名、乗客131名(犯人グループ)を乗せた羽田空港発板付空港(現福岡空港)行きの日本航空351便(愛称よど号)が、富士山付近の上空を飛行中に、拳銃、日本刀、手榴弾(これらはすべて玩具だった)で武装した犯人グループにハイジャックされたのである。犯人グループは前出の田宮の他、岡本武(72年、テルアビブ空港乱射事件を起こす日本赤軍・岡本公三の実兄)、魚本公博(有本恵子拉致にも関与が疑われている)ら、計9人。最年少の柴田泰弘は16歳だった。

 グループは、航路を変更しそのまま平壌に向かうよう要求。しかし、機長は燃料不足を理由に、給油のために予定通り板付空港に向かうよう説得。機長のとっさの判断による時間稼ぎのための方便だが、この要求は認められた。板付空港では、女姓、子供、高齢者ら人質23人の解放にも同意させている。

 田宮の草案と思われる事件の声明文は冒頭に記したとおりである。『あしたのジョー』とはいうまでもなく、梶原一騎原作(名義は高森朝雄)のカリスマ的ボクシングマンガだが、時にその作風を「右翼的センチメンタリズム」と揶揄される梶原と新左翼過激派の奇妙な取り合わせは今思うと興味深い。くしくも、アニメ『あしたのジョー』(虫プロダクション)の放送第一話のオンエアは、よど号事件のただ中の4月1日だった。

 

 その4月1日、田宮たちを乗せたよど号はソウルの金浦空港にあった。31日の午後、平壌に向かうため板付を離陸した機が無線管制によって導かれた先が同空港だったのだ。空港には「平壌到着歓迎」という看板がかかげられ、朝鮮人民軍の制服を着た韓国軍兵士兵が出迎えるなど、平壌空港に見せかけた偽装工作がなされていた。日米韓による巧みな連係プレーである(乗客には2名のアメリカ人がいた)。しかし、空港内にノースウェスト機が駐機していることに不審をいだいたメンバーが偽装を見破り、当局はこの時点での犯人逮捕を断念、交渉に活路を見出すことになる。

 40時間以上にわたる交渉の末、前日ソウル入りしていた、山村新治郎運輸政務次官が乗客の身代わりとして人質になることで犯人グループと合意。乗員と客室乗務員を解放後、機が金浦空港を離陸したのは4月3日午後6時5分のことだった。

 

 田宮は乗客との別れに際し、場内マイクを取って詩吟『川中島』(鞭聲粛々夜河を過る)を唸ったという。新左翼と詩吟というのも意外な組み合わせにも思えるが、高倉健の任侠映画が全共闘学生のララバイ(子守唄)だったという話も合わせて、新左翼と呼ばれる連中の血管に流れる日本人的浪花節精神、いいかえるなら右翼的センチメンタルズムが垣間見えるエピソードだ。

 はたして、自ら北朝鮮という駕籠の鳥になった田宮たちの後半生は、半ば浪花節的ですらあったと思う。革命の夢破れ、フランス映画『望郷』の主人公ペペ・ル・モコのように、捨てた故国に思い焦がれ、新年には日本風の正月を祝い、ひたすら帰国を願っていたという。

 望郷の思い届かず、1995年11月30日、田宮高麿元赤軍派軍事委員会議長は、平壌の病院で急死する。享年52歳。北朝鮮当局が発表した死因は心臓麻痺だが、これをにわかに信じる者は日本にはおるまい。実は死の前日、訪朝を終えた塩見孝也を平壌駅で元気に見送っているのである。おそらく本当の死因が明らかにされるのは、あの体制が崩壊してからであろう。

 9人いたよど号グループも5人がすでに死亡。38度線の向こうに残っているのは小西隆裕・魚本公博・若林盛亮・赤木志郎の4名となっている。