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【コラム】強欲ゆえに布施をしようとする父
※イメージ画像
先日、伯母が亡くなり、父(83)と兄(51)が九州へ葬儀に赴いた。
13年前、脳出血で半身不自由となった父を介助する形で、長野に暮らす兄が羽田まで車で送迎し、空港で車イスを借りながら、どうにか福岡と熊本まで移動し、3泊4日の帰郷を無事に終えた。
一度言い出したら人の意見を聴かない父親は、同居する私がみるところサヴァン症候群の傾向が強い。他者理解のできない性格で、人の心に土足で上がるだけでなく、人の善意をゴルフクラブでフルスイングする程の一方通行的なコミュ力しか持ち合わせず、一緒にいる1分1秒がストレスとなる。
おまけに幼少の頃から家庭内暴力も平気で行ってきた人間であり、4年前に亡くなった母の寿命はこの男に削られたことは間違いなく、同居する私としては手に追えない存在である。彼の脳出血による卒倒だって、13年前、糖尿病と警告された彼に対し、母や私がさんざん注意し続けた夜食や酒、糖分の自粛を無視し続けた挙句の因果応報なのである。
さて、そんな「クズ」としか形容できない父が「遺骨は九州には置かないで」と希望していた母の遺言を無視して今回、こっそりと自身の郷里である熊本の菩提寺に持参し、埋葬したという。
それだけならまだしも、近づく己の死期に対策するためであろう、寺に1口8万円の檀家布施を3口すると宣言したそうである。九州に行く前夜、私に「30万円貸してくれ」と無心し、理由を尋ねると「旅行費用だ。帰ったら返す」と言っていた理由がそれで分かった。
本当の使途を言えば私が貸さないことを見越して嘘をついたのであろうが、そうまでして手に入れた金を布施にして、極楽浄土の切符でも得られると思っているのだろうか。自分の父ながら、心底情けない。
そもそも、浄土真宗でありながら曹洞宗の氏寺で檀家として寄進するという意味のわからない行動。それぞれの宗派の違いにも興味のない男が、死ぬ間際に大金だけ積んで「私を浄土に」と願う。おそらく浄土も天国もユートピアも、同じ程度の意味にしか捉えていないのだろうが、とにかく母の願いを死後に反古にし、迫り来る死期の対策に大枚を積むという「悪行」には閉口する。
傍目からみて、これほどみっともない老人の姿というのも、あまり見ないし、終生、反面教師でしかなかった父が、最期にトドメの反面教師を示してくれているのかと思わないでは怒りを鎮められないほどに、無様な男の生きざまである。
いや、自分が汗水垂らして稼いだ金を寄付するというのなら、何も文句は言わない。しかし、彼が後生大事に隠し持つ、なけなしの預貯金は、収入が安定せず基礎年金の不払いで1円も貰えない彼自身の国民年金によってではなく、看護師として働き続けた母から引き継いだ遺族年金が原資である。純粋に自分で稼いだ資産ではないものを、せめて日々の生活を支えてくれている自分や兄の遺産として遺そうともせず、自分の死後に有利な交渉材料に使おうという発想である。
自分のこれまでの行いに自信がないから、せめて金を積んで極楽への優先席を確保しようという浅薄な考えが彼自身の人生観の終着点と考えれば、彼らしいと言えなくもない。だったら曹洞宗の寺に寄進するのではなく、悪人正機を唱える親鸞の歎異抄でも読んでその真髄を理解することに努めてもよさそうなものだが、テレビを見る以外の情報収集手段を持とうともしないので、思想信条がアップデートされることは永久に期待できない。
中世カトリックの免罪符とは逆の立場ながら、宗教を利用したエゴイズムでつながる人間のグリード(強欲)でつながる。いかに浄土真宗の懐が深いといっても、彼の魂は救われないでほしいとさえ願いたくなる。
天網恢恢疎にして漏らさず。24万円の切符で無間地獄に堕ち、永遠の反省を促すというのも、懲りない強欲の魂に反省を促す意味では、悪い話ではないのかもしれない。私が阿弥陀如来であったとしても、はたまた監獄所長であったとしても、彼を裁く立場であったら、最も厳しい沙汰を下す。
彼の信仰の根っこにある「地獄の沙汰も金次第」は、世の秩序を乱す汚職の原点である。信じる者は誰でも救われる。そんな不条理があってはならないと、息子ながら天罰を願わずにはいられない。