shohyo「書評」

マルコ書と統一教会 三浦小太郎(評論家)

これから書くことは非信者の解釈なので、クリスチャンの方々は、どうか読み飛ばすか、哀れな無信仰者の戯言として読み飛ばしてほしいのですが、かって子供向けの聖書物語で読み、20代に共同訳聖書で読みなおした、私にはとても印象的なイエスの言葉がマルコ書第10章17節にあります。新共同訳聖書で引用いたします。

 

「 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』」

「イエスは言われた。『なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

 

「すると彼は、『先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。」

「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」

「この人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」(マルコによる福音書)

 

正統的な神学解釈からはとんでもない読み込みかもしれませんが、このイエスに語り掛けた人物は、たぶん善良な人だったと思います。先祖代々の財産か、あるいは自分の努力、もしくはその両方で富を築き、同時に、当時の社会のモラルをきちんと守り、できる範囲で人助けもしながら生きてきた。でも、それだけでは何かむなしい。本当に人を救うにはどうしたらいいか、そして自分自身がもっと充実した人生を送るためには何をしたらいいかを悩んで、最近評判の高いイエスのもとにやってきた。

 

しかし、イエスはここで、あなたは自分の持っている財産をすべて貧しい人に施し、そして自分と共に歩みなさい、と告げています。そして、この人はその決断ができずにイエスのもとを去っていきました。

 

これも私なりのいろんな解釈ができますが、「信者から教団への寄付金は上限を設けるべきだ」「全財産の寄付を事実上命じるような教団はカルト」という旧統一教会への批判を聞いた時、最初に記憶によみがえってきたのがこのマルコ書の言葉でした。

 

私は旧統一教会やオウム真理教の、全財産を教団に寄付させようとするような行為を正当化したいのではありません。ただ、信者に多額の寄付をさせるのはおかしい、という論理が通じるのは、あくまで「非信者」の側の論理で、それが今現在、信者である人に通じるのかどうかということは考えてみる必要がある気がします。「それはお前が騙されているんだ」「教祖と幹部がお金を吸い上げているんだ」という言葉が、果たして、今、信仰の中にある人に届くのでしょうか。

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