kokutai「日本への回帰」「揺るぎなき国体」

【日本への回帰】 日本人の労働観(1)  荒岩宏奨(展転社代表取締役)

 生産と消費

 

 毎年、5月1日付近ではメーデーと称して、労働組合などが賃金アップを求める運動が繰り広げられてゐる。もともとは、そこに資本家と労働者の激しい闘争があったのかもしれないが、今はその闘争も形骸化し、形式的なものとなってゐる気がする。

 私は、メーデーでの労働闘争を否定するつもりはなく、現在のあまりにも近代化してしまった日本の労働環境においては、それは必要だと感じてゐる。ただし、資本家の側にしても、労働者の側にしても、そもそもこの構図そのものが『聖書』の発想に基づく労働観であることを忘れてはならず、我々はあくまでも日本的労働観を取り戻すという根本理想は常に意識しておきたい。資本主義も共産主義も、同じ種から咲いた白いバラか赤いバラかの違い、つまり資本主義も共産主義も同じ西洋近代の産物である。資本家と労働者も、同様だ。

 保田與重郎が労働について次のやうに論じてゐる。

 

《産業の機械化時代に入つて、勤労は信仰を離れ、かつて娯しみであつたものが、苦しみとなつた。行事化した田植歌に、労働の苦痛をいふ歌が増加するのは、田主が所謂地主化し、古代の共同制を失つてからの現象だといふのは、皮肉な解釈である。最古の古典に「手肱に云々」とある文句は、さきに述べた如く労働の激しさをいふためではない。また今日の勤労者の観念では、休日に、勤務日より激しい各種の運動や登山水泳などのやうな重労働をしつゝ、この重労働を嫌はないで、娯楽とする。古代の生産生活に於ては、仕事と娯楽が未だ分離せず、外形の上から見て、日々の暮がそのまゝ祭りだといふ面が多分にあつたのである。しいて分つて云へば昔は生産が娯しみであり、今は消費が娯しみである。しかし古も祭りの生活の中には、存分な消費があり、祭りの娯しみとして存在したのである。

 我が国の勤労観の本義は、事よさしといふ考へ方である。この勤労の手仕事が、道徳の根柢となるといふ考へ方は、わが国の伝統のものであり、東洋の一般観である。

 貴台に於ては、勤労に対する考へ方が、道徳と信仰にもとづいてゐたから、労働を蔑視するやうな風はない。》(『述史新論』)

 

 保田は、昔の楽しみは生産だったのだが、今の楽しみは消費になってゐるといふ。この楽しみの変化が、労働を苦痛と捉へる大きな原因のやうな気がする。

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