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日教組(三) 大野敏明(ジャーナリスト)

 昭和42年4月、私は東京都立秋川高校に第3期生として入学した。

 秋川高校は戦後初の公立全寮制高校である。1学年240人が30の部屋に8人ずつ割り当てられ、夏季は朝6時、起床喇叭で起床、6時15分、校庭で点呼、校旗掲揚、体操。7時食事喇叭で朝食、その後、授業があり、昼も食堂で3学年720人が一斉に昼食を摂った。午後の授業が終われば、全員に義務付けられている運動部の活動があり、終了後は部屋に戻って、入浴、食事喇叭で夕食、自習時間、夜の点呼、11時消灯喇叭で就寝という毎日であった。

 軍事訓練を行わない軍学校のような存在で、私は幼年学校のつもりで入学した。

 開校の理由を都は「転勤族の子弟を寮に受け入れることで、親の転勤に伴って転校しないで済む」とし、自衛官、高級官僚、報道機関、商社など転勤族の子弟が多く入学していた。生徒の父親の多くは旧制高校や陸士、海兵の出身者で、ノスタルジアもあってか、子供を旧制高校や幼年校のつもりで入学させたのである。

 開校に際しては、都議会の社会党と共産党が「幼年学校の復活につながる」などとして反対したといういわくつきの学校でもあった。

 であるから、私は秋川高校に日教組の教師がいるとは思ってもいなかった。入学当初は、教師から「反動」などと呼ばれることはなくなると喜んでいたのである。

 入学して間のない4月下旬、われわれは志望大学を書かせられた。私は第1志望に某国立大学名を書き、第2志望に「防衛大学校」と書いた。

 担任のO原教諭に呼ばれたのは2週間くらい後の放課後である。誰もいない教室で2人きりになると、O原担任は「ぼくは防衛大学校を志望する生徒を教えたくないんだ」と切り出した。O原担任は30歳前後、東京教育大出身で、数学の教師で独身だった。

 私は「秋川高校にも日教組のゴリゴリがいるんだ」と意外な感じをもちながらも、「これからは気を付けて発言しないといけないな」と思った。

 私は「それでは、先生は私のクラスの授業をしないんですか、それとも先生が授業をするときは、私だけ外に出てましょうか」と嫌味を言った。

 O原は嫌味の意味をつかみかねたらしく、「いやそうじゃないんだ」と首を振った。

「では、どうしてですか」と私は穏やかに尋ねた。この時点で、私はこの教師を打ち負かすことを確信していたからである。

「大野君、防大は自衛隊の幹部を養成する学校だよ。自衛隊は憲法違反なんだ。僕は君を憲法違反の人間にしたくないんだ」。

 私は「来た、来た」と思った。こんなレベルの理論ともつかない屁理屈で、人の進路を話すというずさんさに驚くとともに、これで数学の教師が務まるのかと思った。

「自衛隊が違憲であるという意見があることは知っています。しかし、合憲だという人もいます。ですが、私は先生と自衛隊が違憲かどうかについて議論する気はありません。そこに学校があり、毎年受験する者がいて、合格して入校する者がいる以上、私がその一員になれないというのはおかしいと思います」と言った。

「いや、だから自衛隊が違憲なんだから、受験すること自体がおかしいんだよ」とO原は話を蒸し返した。

 しばらく押し問答をした後、私は「分かりました。ではこうしましょう。私としては防大を志望しているのに、担任の先生から強く反対されているわけで、進路をどう考えればいいか、判断がつきません。そこで、都の教育庁にどうすればいいかの判断を仰ぐ手紙を書きます。その返事が来た上で、改めて話し合いましょう」と提案した。すると、O原は私の顔をまじまじと見ながら、黙り込んでしまった、黙り込んだというより、何と返事していいか分からなくなったという方が正確だろう。

 1分か2分かの沈黙の後、彼は「大野君、すまなかった、この話はなかったことにしてくれ」とのたもうたのである。私は彼がそう言うだろうと思っていた。しかし、驚いたような顔をして、「先生、それはないでしょう。先生も自分の思想があり、信念に基づいて私に話をしたんでしょう。それをなかったことにしろ、とはどういうことですか」と語気を強めた。O原はうなだれて「申し訳ない」と小さな声で言うばかりである。

 勝負はついた。私の完勝である。私は「帰っていいですか」と聞き、答えを待たずに席を起ち、教室を後にした。

「自分は担任である。間違った考えを持っている生徒を正さなくてならない。生徒は教師の言うことを聞くものだ」という思い上がった愚かな教師は、その後、3年間、私に何も言えなかった。私に会えばいつもにこやかでさえあった。いつ手紙を書かれるか分からない、という恐怖があったのだろう。

 卒業後、何回も開かれた同期会に、教師も招待しているが、O原教諭が出席したことは一度ない。