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【論説】中ロによる日本分割の悪夢

※ネット上に出回る出所不明の「2055年列島区分予想地図」

 

 

ヨーロッパに限定して考えたとき、第二次世界大戦はどの時点で引き返せない修羅の道に突入したのだろうか。ドイツ国内の不満の発火点は、第一次世界大戦での戦後補償を決めた1919年のヴェルサイユ条約である。

 

海外植民地も、アルザス・ロレーヌ地方も失い、ザール地方は国際連盟の管理下に置かれ、ラインラントも非武装地帯として占領下に置かれた。巨額の賠償を課せられ、軍備も厳しく制限されて、戦禍のドイツは手足を縛られた状態で復興もままならぬ足枷だらけの再スタートとなったのである。

 

Diktat(命令)と名付けて同条約を恨んだドイツ国民に対し、10年後の1929年9月、米国発の世界恐慌が追い打ちをかける。対外植民地や広大な開拓地を有していた米英仏はブロック経済で当座を凌ぎ、社会主義体制下で計画経済に移行していたソ連はほとんどダメージがなかった。一方、大きな市場がないドイツやイタリアの経済は直撃の被害を受け、ドイツマルクは紙屑と化した。国民の不満や怒りは1930年の国政選挙でナチ党(ナチス)を第2党に躍進させ、1932年には第1党に上り詰めた。翌年にヒトラーが首相に就任し、2か月後には全権委任法を成立させ、独裁体制が一気に確立する。

 

ここからの軍事大国化は一直線だった。就任直後から強制収容所を各地に設立させ、政党の存続・結成を禁止し、国際連盟を脱退。同年末にはナチスと国家の一体化を定める法律を公布し、ドイツ国家はヒトラーの所有物となった。1935、36年にはザール地方もラインラントも取り戻し、ベルリン五輪が終了した翌月の1936年9月には党大会で「4年以内に戦争できる体制にならなければならない」とした。その目的は原料基盤と食糧基盤の拡大によって、(ゲルマン系)民族共同体8,500万人の安全と維持にあると謳った。

 

翌年の1937年に国防軍首脳や外相を集めた秘密会議で戦争計画を記したホスバッハ覚書を交わし、領土拡張の意思を明確にした。ドイツが抱える問題を解決するには武力しかないと明言し、戦争開始のタイミングとして「1943年から1945年を過ぎると軍備拡張や近代化の優位性が失われていく」とし、10年以内の開戦を明確に設定していた。

 

つまり、ナチス政権が誕生した1933年の時点で、第二次世界大戦はロックオンされたと言える。では、どの時点まで遡れば引き返す選択肢が残されていたのかと考えるとき、ナチスの躍進が約束された世界恐慌の時点では、既に遅かったのではないだろうか。

 

世界恐慌によって英米仏は自国の生き残りを最優先し、取り残されたドイツやイタリアの国民が現政権に対する不満を爆発させてそれぞれナチ党、ファシスト党という独裁政党を招来し、八方塞がりの現状打破を期待したのである。もはやこの時点で、両国民は「毒を食らわば皿まで」の心境だったのではないだろうか。

 

そう考えると、英仏が主導したヴェルサイユ体制によって、無理難題とも言える補償をドイツに押し付けなければ、もしかしたら世界恐慌後もドイツの財政破綻は避けられ、ナチスの台頭はなかったかもしれない。いずれにしろ、最終的な解決手段を「戦争」と設定していたナチスやヒトラーに政権が渡った時点で、選択肢はなくなっていた。

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