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皇居前の第一生命が語る激動の昭和     村田春樹

いきなり私事で恐縮だが、私は昭和48年22歳で第一生命保険に入社した。その頃年配者は第一生命と聞くと「お、GHQの!」と言う。入社するまで終戦後GHQに接収されていた事を知らなかった。4月1日入社式があり社長に辞令をもらったが、その部屋は後から思えばマッカーサーの執務室の隣の最高司令官応接室だった。第一生命ビルの1階から6階まで全て昭和20年9月から昭和27年5月まで接収されていたことを知る人は多い。地下は四階まであるが全て第一生命は引き続き使っていたそうだ。昭和27年の返還式の時、屋上の星条旗の替わりに日章旗をするすると掲げたそのロープを引っ張った、という言う人が、私の入社時まだ会社におり、飲み会で時折その自慢話をしていた。皆は興味を示さなかったが、私だけ目を輝かせて聴いていたものだ。

マ元帥の執務室は今でも丁寧に保存されている。ちなみにその部屋も机も椅子も社長石坂泰三のものだった。

さて今日はGHQの話しではない。この6階の元帥の執務室の同じフロアに会長室があった、そこで起こった悲劇について書きたい。

実は戦時中第一生命ビルは4階から6階を東部軍に接収されていたのだ。会長室は東部軍司令官室となった。屋上には高射砲が設置され実際にB29を撃ち落としている。又戦死者も出ている。時に昭和20年8月14日夜。陸軍省の一部将校が徹底抗戦を叫んで近衛師団長を殺害し玉音盤を奪おうとした。時の東部軍司令官田中静壹大将は近衛歩兵第一聯隊に急行し、偽命令書を信じて出動寸前の将兵を説得した。この後近衛第三聯隊の将兵も説得訓戒した。「潔く我々は敗れよう。そして責任を取ろう。軍司令官として私も立派に責任をとる覚悟を決めている。これが日本陸軍最後の姿だ。」と声涙ともにくだる演説でいきり立つ将兵を鎮撫したのである。この鎮撫によって宮城は静まりかえることになった。

昭和天皇はこれを聞きことのほか嘉賞され、15日の夕刻田中司令官に拝謁を申しつけた。そして極めて優渥なるお言葉を賜ったのだ。田中司令官は帝都防衛任務を果たせず宮殿全焼はじめ多くの犠牲者を出したことをお詫びした。そのとき陛下はハラハラと落涙したと伝えられている。司令官がおいとまを申し上げに来たことを理解されたのだ。その後8月24日に川口放送所占拠事件が勃発、田中司令官は自ら説得に乗り込み、ここでも声涙ともにくだる演説をして将兵をなだめ、蹶起将校は投降した。田中司令官は安堵して、司令官室に戻り遺書を準備。深夜拳銃で自決を遂げた。遺書の横には観音経と谷口雅春師の「甘露の法雨」が置かれていた。

辞世の句「聖恩のかたじけなきに吾はいくなり」

今日8月24日は田中司令官のご命日。

司令官室はその後会長室に復元され今は空き室になっているそうだ。私は在職中に会議室に大きく掲げられた田中司令官の揮毫を見たことがある。

第一生命ビルは歴史を見つめてきた。今でも日比谷に健在である。

追記 今昭和天皇実録を繙くと、将官の自決の報が頻々と陛下のお耳に届いていることがわかる。ご胸中いかばかりか。終戦時自決将兵、大将から一等兵まで568柱のご芳名が残っている。「世紀の自決」芙蓉書房より。