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大正デモクラシー、人権を背景にした炭鉱王夫人の出奔 筑豊 伊藤伝右衛門邸

 

1942年10月、突然新聞紙上に発表された「福岡炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻、詩人の白蓮こと伊藤燁子」の夫への決別分が発表され世間を沸き立たせた。夫を捨て当時学生であった宮崎龍介と駆け落ち、その際如何に女性としての人権もなく誇りを失う悲劇的な結婚生活であったかを綴った決別文であった。

 

伊藤伝右衛門といえば、当時日本の基幹産業であった炭鉱王の一人だ。知人の納屋で暮らし、石炭を拾い集め、使い走りをしていた貧しい境遇から身を起こし、ついには大炭鉱王となった伝右衛門だが、明治の世を賑わせた男としてもあまりにも有名である。

 

白蓮は柳原子爵の令嬢燁子として育ち、一度は結婚したものの離縁し実家に戻ってきた身である。当時の子爵は燁子の兄・義光であるが、彼は借金の肩代わりに妹燁子を伊藤に差し出したともいわれる。燁子は当時から歌人として著名な存在であり、平民上がりの伊藤家としては貴族の子女である燁子との結婚は願ってもない事だったであろう。50歳と25歳の結婚として、当時大いに人の口に上った結婚であった。

燁子を迎えるために、1911年(明治44年)伊藤は福岡に豪壮な邸宅を建築する。筑穂御殿をはやされた伊藤邸の図面は下記に挙げておく。

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