ken「筆は剣よりも危うし」

【筆は剣よりも危うし】 青葉慈蔵尊   三澤浩一(武客)

 6月21日は、青葉慈蔵尊供養之日である。

 

 満洲赤十字社から派遣され、関東軍の野戦病院に勤務していた従軍看護婦さんたちが敗戦後、赤魔ソ連(現在の鬼畜ロシア)による暴虐蛮行から、日本女性の誇りと純潔を守り抜くため、凛烈たる自決を遂げた。青葉慈蔵尊は、大和撫子として殉節した乙女たちの芳魂を慰霊するため、昭和31年6月21日に埼玉県さいたま市西区三橋の青葉園という墓地に建立された仏さまである。

 

 中村武彦先生が、殉難殉節した看護婦さんたちの上司である婦長の堀喜美子さん(後に松岡喜美子さん)と懇意にしていた関係から、中村先生のお供をして永年お参りしてきた。中村先生が亡くなった後も毎年お参りしている。今年も例年の如く、志を同じくする道の友らとともにお参りした。

 

 中村先生が書いた『青葉慈蔵尊由来記』を読むと、いくつになっても悲憤かつ慟哭してしまう。インターネットで検索すれば、簡単に見つかるはずだから、ご一読いただきたい。

 

 青葉慈蔵尊の建立に尽力した青葉園の創立者である吉田亀治さんは敗戦時には陸軍大尉、<マレーの虎>山下奉文陸軍大将の部下だった。青葉慈蔵尊の隣には山下大将のお墓、前には吉田さんのお墓があり、園内には牛島満陸軍大将もある。さらに青葉神社も鎮座されており、記念館も設けられている。この記念館には、山下大将の遺品をはじめとする素晴らしい品々が展示されている。吉田さんの憂国の至情に感激してしまう。

 

 青葉慈蔵尊をお参りした後、吉田さんの上官だった山下大将、吉田さん、牛島大将のお墓参り、青葉神社を参拝した。今年は記念館も休館していたので、外観のみを見た。

 

 青葉慈蔵尊の側に石碑が建っている。平成8年6月21日の五十年忌に建てられたもので、表には由来が、裏には乙女たちの遺書とともに姓名が刻まれてる。この由来も、中村先生の筆によるものだ。碑に刻まれた由来、遺書、お名前を参考まで次に記す。

 

 

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青葉慈蔵尊由来

 

昭和二十一年春 ソ連占領下の旧満州国新京の第八病院に従軍看護婦三十四名が抑留され勤務していたが ソ連軍により次々に理不尽なる徴発を受け その九名の消息も不明のまま更に四回目三名の派遣を命ぜられた 拒否することは不可能であることを覚悟したその夜 最初に派遣された大島看護婦が満身創痍瀕死の身を以って逃げ帰り 全員堪え難い凌辱を受けている惨状を報告して息絶えた 慟哭してこれを葬った二十二名の乙女たちは 六月二十一日黎明近く 制服制帽整然として枕を並べて自決した

先に拉致された同僚たちも 恨みを呑んで自ら悲惨なる運命を選び 満州の土と消えた

二十三年の暮 堀看護婦長に抱かれて帰国した二十二柱の遺骨は 幾辛酸の末 漸く青葉園園主の義侠により此地に建立された青葉慈蔵尊の台下に納められた 九名の友の霊も合わせ祀られ 昭和三十一年六月二十一日開眼供養が行われて今日に至った

凛烈たる自決の死によってソ連軍の暴戻に抗議し 日本女性の誇りと純潔を守り抜いた白衣の天使たちの芳魂 とこしなえに此処に眠る        合掌

 

 

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遺書

 

二十二名の私たちが自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかし御迷惑と深くお詫び申し上げます。私たちは敗れたりといえ、かつての敵国人に犯されるよりは死をえらびます。たとい生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の土に止り、日本が再びこの地に還って来る日、御案内致します。その意味からも、私どものなきがらは土葬にして、この満州の土にして下さい。

 

 

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昭和二十一年六月二十一日散華

旧満洲新京(現長春)

通化路第八紅軍病院

 

荒川さつき 池本公代  石川貞子

井出きみ子 稲川よしみ 井上つるみ

大島花枝  大塚てる  柿沼昌子

川端しづ  五戸 久  坂口千恵子

相良みさえ 澤口一子  沢田八重

澤本かなえ 三戸はるみ 柴田ちよ

杉まり子  松永はる  田村 馨

垂水よし子 中村三好  服部律子

林 千代  林 律子  古内喜美子

細川たか子 森本千代  山崎とき子

吉川芳子  渡辺静子

 

昭和三十一年六月二十一日埼玉県大宮市

青葉園に青葉慈蔵尊として台座に一同の

分骨を納めて建立平成八年六月二十一日

五十年忌に當りて此の碑を建つ

 

 

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 以上である。

 

 青葉慈蔵尊に祀られる大和撫子たちに哀悼と尊敬の誠を捧げるとともに、日本人としての志行(志操と行動)をお守りしていくことをお誓い申し上げる。

 

 合掌