kokutai「日本への回帰」「揺るぎなき国体」

【日本への回帰】 沼山光洋さんを偲ぶ令和三年緑光祭  荒岩宏奨(展転社代表取締役)

 令和元年五月十一日午前二時四十分頃、靖国神社そばの中通りで沼山光洋さんが割腹自決を遂げた。平成のうちに陛下の靖国神社御親拝の環境を整えることができなかったので、陛下と忠霊にお詫び申し上げる自決であった。沼山さんは靖国神社や護国神社のご祭神を英霊ではなく忠霊と呼んでいた。

 平成二十八年に陛下のおことばを賜り御譲位が決定すると、沼山さんは「このままでは一度も靖国神社御親拝を賜らないまま平成の御代が終わってしまう」と強い危機感を抱いた。靖国神社御御親拝が途絶えている理由を、昭和五十年十一月二十一日の参議院内閣委員会で宮内庁の富田が社会党議員に厳しく追及されたという政治的問題だと考えていた沼山さんは、まずは閣総理大臣に御親拝の環境を整えるよう求める署名活動を開始した。

 さらに、小泉政権で女系天皇論が出たときには国民の祈りが通じて秋篠宮家に親王殿下がご誕生したので、祈りも大切だと考えていた。そこで、靖国神社および全国の護国神社を巡拝して、靖国神社御親拝実現を祈願するといふ活動も行った。遺書によると、沼山さんはこのとき、各地の護国神社でご祭神に、御親拝実現のために「命を懸ける」と約束して祈りを捧げてきた。しかし、靖国神社御親拝を賜ることなく、平成の御代が終わってしまったので、約束通り命を捧げたのである。

 五月十一日を選んだのは、大東亜戦争で神風特別攻撃隊第五筑波隊の西田高光命のご命日だからである。沼山さんが靖国神社の車椅子奉仕で、境内を案内するとき、必ず神雷桜の前で西田高光が山岡荘八に遺した言葉を紹介していた。

 六月十六日には有志が集い、「沼山光洋之命葬場祭」を斎行した。そして六月二十三日には友人一同で「沼山光洋さんを追悼し感謝する集ひ」を開催。この集いには会場には入りきれないぐらい多くの人々が集まった。

 令和二年五月十一日には、沼山さんの年祭と顕彰を行う「緑光祭」を実行委員会で計画していた。この名称は、沼山さんの遺詠「境内を埋める花びらなげあそぶ子らの上にはさみどり光る」から採ったもので、沼山さんの名前の一字「光」も入っている。

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