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書評「謎解き『風と共に去りぬ』」鴻巣友季子著 新潮社 三浦小太郎(評論家)

映画「風と共に去りぬ」が、黒人に対する差別的表現が問題となり一時的に配信停止になったことが伝えられた。個人的には、この種のことは「ポリティカル・コレクトネス」というより「政治的流行」にすぎず、DVDなどでいくらでも観ることができるのだからそれほど重要なこととは考えられない。しかし、この映画と原作について、いまだに続いている誤解や誤読を問い直すきっかけになれば意味があるだろうし、この機会にぜひ読んでもらいたいのが、本作を新たに翻訳した(新潮文庫全5巻)鴻巣友季子による「風と共に去りぬ」の解説本である。

正直、私は映画は観ていたが、本書を読むまで原作を読もうという気には全くならなかった。映画は豪華絢爛ではあるが、ある種の南部幻想の典型のように感じ、ヴィヴィアン・リーやクラーク・ゲーブルの貫禄あふれる姿には感動しても、どうも前者は単なる自己中心女、後者は成り上がりのジゴロに見えて人間的には共感できなかったのである。原作もそんな大味の時代遅れの歴史ロマンだろうとしか思えず、映画によって生命を永らえた時代遅れのものだと決めつけてしまったのだ。しかし、本書を読んで、これが全くの誤解であったこと、映画の真の魅力も原作の本質も見抜けなかった自分の馬鹿さ加減を深く反省させられた。

まず、原作者マーガレット・ミッチエルは、本作の映画化には大反対で、映画化権を渋々認めた後は、シナリオも含め一切映画に関わっていなかった。何よりもミッチェルは、この作品が、例えばトーマス・ディクソン(映画「国民の創生」原作者)たち、南部を美化するプラウンテーション・ロマンサーズたちと同一視されることを嫌っていたのである(一部で誤解されているようだが、ミッチェルはディクソンの本作への賞賛には儀礼的(かつ皮肉っぽい)返信を送っただけで、ほとんど共感を示していない)。以下のミッチェル自身の言葉を読めばそれは明らかである。

 

「わたしは本が出版されてからというもの、多くの場で(古いタイプの)南部作家たちと同列に語られて戸惑っております。つまり、古い支柱をかまえたお屋敷で、裕福な農園主があまたの奴隷を使いながら、あまたのシュレップを飲み干すような南部像を描く作家たちです。戸惑うだけではなく驚いてもいます。(「風と共に去りぬ」の舞台である)北ジョージアは間違ってもそんな土地柄ではなく―もっとも、そんな『土地柄』がどこかに実在したのかすら疑わしいのですけどね。私は苦心に苦心を重ねて、ありのままの北ジョージアを描いたつもりなのですから。」(98頁)

 

 この「古い支柱をかまえたお屋敷」こそが、映画によって強烈にイメージされた古き南部幻想なのだった。ミッチェルはいわゆる1920年代のジャズ・エイジであり、古き南部幻想をむしろ否定することがこの小説の目的の一つだった。これもよく言われる「風と共に去りぬ」がKKKを美化して描いているというのも誤読であり、むしろ愚かな存在とみなされている。本書はそれを見事に原作を引用して証明している(同時に、しばしば純情な聖女のように見なされるメラニーが、スカーレットよりはるかに「危機管理能力」があり、「有事」には平然と対処していることもわかる)。

スカーレットが黒人と白人に襲われるシーンが気になって仕方がない論者もいるかもしれないが、その彼女を助けるのも黒人サムであることを忘れてはなるまい。むしろこの挿話は、後にKKKが戯画的な決起を試みて壊滅させられる物語展開を導くためのものとも読めるのだ。そして、KKKに代表される南部のルサンチマンを否定したスカーレットの言葉は何よりも雄弁だ。

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