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【書評】 命がけの証言 清水ともみ 楊海英著 WAC出版 三浦小太郎(評論家)

大切なことなので何度でも繰り返すが、ある漫画作品が、何らかの社会問題を扱ったからと言って、作品の価値がそれによって上がることも当然下がることもない。問題なのはその作品が漫画として優れた表現になっているか、そこに人間の本質が描かれているか否か、それだけが作品の価値基準である。本書に収録された清水ともみの漫画作品は、ウイグル人の「命がけの証言」が描かれているから名作なのではない。作者、清水が、自らの漫画家としての全てをかけてウイグル人証言者たちの精神の本質を描いたからこそ名作になったのだ。その意味では、漫画家としての「命がけの」作品なのである。

本書冒頭に置かれた、作者によるウイグル漫画の第一作である「その國の名を誰も言わない」は、いくつかの証言や文献から作者が再構成した作品であり、作者の創作モチーフが最もわかりやすく表れている。こそして興味深いエピソードとして、作者は本書冒頭の楊海英氏のとの対談にて、関口宏のテレビ番組で、ウィグルのカシュガルが放映されたものを見た時の思い出を述べていることだ。

「カシュガルの一面の綿畑で農家の方がとても暗い表情で綿を摘んでいたのが印象に残ったんです。話しかけてもあまり答えない。普通、こういう現地取材をするとき、笑顔を浮かべながら農作業をしているシーンが出ますよね。当時は、なぜそんな暗い表情なのかなと疑問に思っていましたが、それから10年たってウイグルの現状を知り、あの暗さの理由がわかりました。」

この言葉が印象的なのは、私自身、高校時代に見たNHKの「シルクロード」の思い出があるからだ。私は作者ほどの鋭敏さはなかったが、そこでも撮影されたウイグルの地で、豊かな果実の実りの影で、老人たちがじっと硬い表情、何かを耐え忍ぶような表情をしていたことが強く印象に残っている。

ソ連、北朝鮮、ナチスをはじめ、独裁政権国家を取材したジャーナリストたちがしばしば提灯記事まがいのルポを書いてきた。彼らはショーウインドーのように、よい処だけを見せつけられたせいだ、騙されていたのだとよく言われる。しかし、アンドレ・ジッドの「ソヴィエト旅行記」のように、どんな管理下の取材であれ、ソ連社会の抑圧体制を見抜いた人もいるのだ。観る意志のないものには何も見えない。観る意志のあるもの、また率直な己の感

情や常識的な人間観を持ち続ける目には、どんな管理下であれ、抑圧された人々のメッセージは伝わってくる。

そして同じ作家でもゴーリキーは、ソ連の収容所を視察に訪れ、おそらくそこで真実を囚人から知らされたにもかかわらず沈黙した。彼は「ソ連体制を今批判することは、反ソ陣営や反共右翼を利することになる」という精神的桎梏から自由になれなかったのだろう。そして日本のマスコミのかなりの部分が、どんな政治体制の国であれ、そこに美しい娯楽番組の映像しか求めない「中立派」の発想と、何らかの政治的理由で中国批判をためらう「良心的」発想のいずれかにいまだに捕らわれているのではないだろうか。

作者のその番組を見た印象は、本書32頁に見事に作品化されている。日本のテレビ番組クルーは、ウイグルの一面の綿畑に、美しい映像と勤勉なウイグル女性の姿以外の何ものも観ることができない。彼は善意で、また番組への協力への御礼もあって綿摘みを手伝う。そのすぐ近くでウイグル人女性が、堅く沈黙を守り、しかし、眼で自分たちの苦境を語らずとも訴えていることには何の関心も持たない。このような「善意」が、ごく最近まで、いや、今でも本質的には、ウイグルをはじめ中国共産党独裁による多くの弾圧や虐殺を看過し、時には手を貸しているのだ。私たちはこの見開きのページを見ただけで、実は自分たち自身が無自覚の傍観者であったことの罪を知る。

この作品は、この綿畑で働いていた女性が、その後ますます激しくなる弾圧で、夫も、子供も、家族も失う悲劇を描いていく。この第一作は、後の作者の証言漫画にみられる抑制された筆致とはやや異なり、眼をそむけたくなるような悲惨な画面も描かれている(ただし直截的な暴力の描写は注意深く避けられ、それが作品の品位を護り低俗な残虐趣味には陥らない)。だが、読後感は不思議なほど爽やかなものがある。

すべてを失い、民族の将来に何の希望も持てない状況に置かれたこの女性が、最後に勇気だけを武器に抑圧者に立ち向かう姿が、セリフと絵によって、読者に強烈なメッセージとして届くからだ。滅ぼされ、その名を禁じられた彼女の祖国「東トルキスタン」が、死を覚悟した彼女の意志と共に、暴力しか信じない中国共産党政権とその追従者たちに対峙するウイグル人の誇りと共に蘇る。「私たちがこのまま全滅したとしても、決してそれが終わりじゃない」という主人公の言葉は、恐怖と絶望を乗り越えた地点から、世界の不条理と偽善を告発しているのだ。

本書で描かれるウイグル人たちは、悲劇的な被害者ではない。単なる被害者であることを拒否し、悪と戦うことを決断した人々なのだ。そのうち何人かが、ここ日本に住み、そして故郷の家族がこの主人公同様の苦境に立たされている。私たちが32頁に書かれた優しい

テレビマンにとどまってしまうか、彼らの声に耳を傾け、その戦いにささやかなりとも力を貸すことを選ぶか、それは私たち自身に問われている問題である。