ken「筆は剣よりも危うし」

【筆は剣よりも危うし】 大川周明先生と弟子たち   三澤浩一(武客)

大川周明先生

日野月孝治先輩

椋木瑳磨太先輩

 大川周明先生が師、日野月孝治先輩と椋木瑳磨太先輩が弟子である。3人とも、僕が敬仰する<拓大人>だ。大川先生は高名な方だから、読者には説明など無用だろう。本稿では、先生の思想や行動ではなく、弟子たちとの交流について述べたい。

 我が母校、拓殖大学が誇る大先達たちだが、ここでは読みやすさを考え、敬称のみ使い、敬語は用いないので、ご無礼の段ご海容を願う。また混乱を避けるため、名前を記すのは3人のみとする。

 大川先生は明治19年、山形県に生まれ、昭和32年に亡くなった。大正9年、拓大の教授に就任、昭和7年に五一五事件で逮捕されたため退任した。

 日野月先輩は拓大の学21期、大正13年に卒業した大先輩である。椋木先輩は学34期、昭和13年に卒業した。ちなみに僕は学81期、昭和58年の卒業である。

 大川先生は大正11年に出した『復興亜細亜の諸問題』の中で「十年以前、出家遁世さえし兼ねまじかりし専念救道の一学徒、今は即ち拓殖大学に植民史を講じ植民政策を講じ、東洋事情を講じつつ、武侠の魂を抱いて紅葉ヶ岡の学堂に知識を練る青年と共に、復興アジアを生命とする一戦士となった」と述べている。先生は教え子たちとともに、学徒から戦士となり、国家改造運動(維新)、アジア復興運動(興亜)へと進んでいった。

 日野月先輩は『拓殖大学七十年外史』に寄稿した「大川周明博士を憶う」の中で「博士は、紅葉ヶ岡に清新溌剌たる新風を鼓吹し、本学に一新機軸を劃くされた方である。その間博士の薫陶をうけた者は数多く、満州に中国大陸に勇躍進出して中国問題に挺身され、遂に骨を大陸に埋めた者も少なくなく、また今日現存の人達は博士の遺志を継承して何等かの形で日本のためにつくしていることが多い」と述べている。大川先生の教え子たちは、先生の教えを守り、日本のため、アジアのため、命ある限り戦いつづけた。

 大川先生の肖像だが、まさに<東亜の論客>の風格と迫力を感じさせてくれる。日野月先輩の自宅の応接間に掲げられていた肖像を複写させていただいたものだ。

 日野月先輩は明治31年、愛媛県に生まれ、昭和58年に亡くなった。拓大では文武に秀でた抜群の存在で、特に我が国の古式泳法では師範の免許を得ていたと聞く。在学中に大川先生が指導する<魂の会>に参加、全国の大学の民族精神復興運動において、縦横無尽の活躍をした。拓大を卒業すると、大川先生の指示により事業経営に携わるとともに、<行地社>や<神武会>の幹部として、昭和維新運動に挺身した。昭和6年の三月事件、十月事件にも参画している。戦中は興亜総本部の幹部として、アジア復興運動に従事した。

 戦後は海外各地から帰国する同胞の食糧を確保するため、清明牧農社を興し、開拓事業を展開している。後には富士産業商会を経営、実業家として成功した。母校では、同窓生の親睦団体である<拓殖大学学友会>の会長に就任、学校法人の理事もつとめている。退任後も大学の顧問、学友会の相談役として、亡くなるまで母校を見守ってくれた。また<政治刷新国民運動>の代表理事として、祖国再興のために尽力した。

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