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英霊と一体となった靖国神社参拝者の尊い姿 西村眞悟

本年八月十五日の終戦記念日、即ち七十五年前に、昭和天皇の大東亜戦争を終結するために連合国の発したポツダム宣言を受諾した旨の詔書が、天皇の御自らの声(玉音)で全国民に伝達された日は、午前十一時前から午後五時過ぎまで靖國神社境内にいた。そして、午後四時前に昇殿して御霊に参拝した。

神社側の発表では、午前六時の開門から午後六時の閉門までの間に靖國神社境内に入った人の数は、例年の半分ほどであったという。しかし、私は、九段から一之鳥居をくぐって坂を登り切った時、大村益次郎の銅像当たりから始まる拝殿に向かう人々の列の長さに驚いた。このような参拝に向かう人々の長蛇の列を始めて見たのだ。しかも、この列は、午後五時前に退出するときも二ノ鳥居を越えて続いていたのだ。その列に並んでいる人々は、文字通り老若男女で、密になっているが、マスクをする人は実に少ない。気温三十六度を超える炎天の下では、苦しくてマスクを外したのであろう。そうして、人々は参拝まで二時間、拝殿に向かって静かに列に並んでいた。この光景は感動的だった。

思うに、境内にいる総ての人は、武漢ウイルス禍の猛暑のなかで英霊を思っていたのだ。英霊は、平穏に畳の上で亡くなったのではない。英霊は、灼熱の瘴癘地、熱帯のジャングルで、マラリアやデング熱などの熱病に苦しみながら祖国日本を守らんと戦い続けて敵の銃砲弾に五体四裂した人々である。この英霊を思って、「熱いから嫌だとか、ウイルスが恐いとか、この靖國では言うな」という静かで強い思いが列をつくる人々に漂っていた。従って、本年の八月十五日の靖國神社は、英霊と今生きる我らが一体となった尊い聖地であったと、今、思い返しても心にしみるのだ。

そこで、この靖國神社境内で、英霊と今生きる我らが一体となった姿を思い起こし、今こそ、我らは、英霊に成り代わって大東亜戦争の人類史的意義を甦らせ、この意義をこれから生きる子供達に伝えていかねばならない。それは、大東亜戦争は、確かに敗れた。しかし、日本は敗れることによって、その崇高な理想を達成した、ということだ。

現在、アメリカで警察官が容疑者の黒人が逃げないように首を圧迫して死亡させた事故を切掛けにして人種差別反対運動が起こり、これが欧州にも拡大している。

この時、英霊と一体となった日本人なら言わねばならない。近代人類史のなかで、人種差別反対と諸民族の共存共栄を掲げて、欧米白人諸国と闘い、二十世紀後半の人種差別と欧米白人諸国によるアジアアフリカの植民地支配を終焉させたのはアジアの日本であると。

パラオ共和国に、少年の頃、日本軍に加わって押し寄せるアメリカ軍と戦おうとしたイナボ・イナボという酋長がいた。平成六年、来日したイナボ・イナボ酋長は、日本人に日本語で次のように言った。「日本は、戦闘で、負けました。しかし、戦争に、勝ちました。」。

彼にとって、戦前と戦後は連続しており、祖国パラオ共和国の誕生は、まさに日本が欧米諸国と戦った結果であった。だから彼は、戦前と戦後が断絶され、戦前の日本の志、即ち、英霊の志を忘却した日本人に、「あなた方は、戦争で勝ったのです」と教えてくれたのだ。私は、彼は日本人に戦前と戦後の連続性を回復してくれた恩人だ。従って、後年、パラオ共和国に行ったとき、私は、酋長イナボ・イナボの墓に参った。

先の六月末、学生時代の友人から、共に生涯の師と思う森信三先生の、昭和五十二年八月の講演の録音が「非常に感銘深い内容だ」と添え書きして送られてきた。

森信三先生は、明治期の哲学倫理学の二人の重鎮といわれた広島高等師範学校の西晋一郎教授と京都帝国大学の西田幾多郎教授の教えを受けた哲学者であり、「両眼の内、一眼は足下の現実を、他の一眼は人類の未来を見つめよ」といわれた方だ。次に四十一年前の森先生の講演の要点を記して本稿を終えたい。

「二十世紀から二十一世紀にかけて、一つの大きな境目がくる。それは、西洋文明の限界点が見えだしてきた。先が見えてきたということだ。従来の西洋文明への手放しの礼賛と模倣を脱して目覚めが始まる。

実は、その切掛は日本の大東亜戦争と、その敗戦の結果なのです。日本は、敗れることによって、目的を達したのです。これは世界史に類例がない。

即ち、日本は、負けることによって、日本の理想である有色人種の解放を実現しアジアから植民地支配者の白人を追い払ったのです。」