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國體護持的明治維新の考え方②  堀 芳康(國體護持研究家)

國體と明治維新について語る前に、「維新」の語源について触れておきます。

「維新」という言葉の出典は、『詩経』であり、「周雖旧邦其命維新(周は旧邦なりといえども、その命これ新たなり)」にある(その意味:古くから続く周のような国でも、革新を繰り返し再生する)。それまでは維持してきたものの、維持することが出来なくなる原因を生じて維新は起こるといいます。内的なものであれば、精神的支柱のようなものであり、外的なものであれば、制度的なものに亀裂がはいる事をいうのでしょう。

その崩壊の原因を考えるのが歴史の面白さであるのですが、ペリー来寇に始まり、陰謀論や、明治維新を批判的に見る人達は、内なるものに目が届かなくて、崩壊の原因をつくった幕政を、飢饉の時以外は幸せなものだったと考える人まででてくる。

徳川幕府も発足当初は、応仁の乱以来、戦乱に苦しめられた人々が解放され、平和の中で、以前の学問が貴族や僧侶の閑事業だったものが、一般民衆のものとなり、知識が最も覚醒した時代となる。また、鎖国政策で国情発展の足掛かりは国内のみに向けられ、この時期に日本全国の開拓が進み、段々畑や水田などの風光明媚な景色や村社会の共同体意識を生みだした。精神的には、民衆の伝統精神を重んじる心は奪うことなく、以前から残っていた神社仏閣や史跡などは保存され、天皇の祭祀を認めることで、民衆の尊皇心に満足を与えた事は、國體を破壊したわけでなかったと考えます。むしろ、明治政府が行った神社合併による貴重な自然や史跡の破壊の方が、人間の結びつきや拠り所の破壊という意味で國體破壊に近く、その点において取り返しのつかない瑕疵があったと言えるのではないでしょうか。

徳川幕府は、天皇の祭祀を認めて宗教的尊厳を与えたが、国家の統治者たるべき一切の政治的権力は奪い、同様に公家と呼ばれる天皇を支える階級にも、日本国民の中でも最高の地位を与えたが、政治的権力は奪い去った。これは君民一体の國體を奪ったと言えますが、征夷大将軍としての武家の政治は源頼朝以来のことであり、圧迫感の差はあれ、家康が破壊する以前から継続していたことだと言えます。

では、何故、こうした状況の中で、明治維新は起こったのでしょう。大川周明氏は國史概論の中で、「真の維新は復古である」といい、善なるものの力が弱まり、悪なるものが横行する時、革新の必要性は高まると書かれていますが、この辺りにヒントがありそうに思います。

次回に続く