contribution寄稿・コラム

【三浦重周烈士を偲ぶ】  玉川博己(三島由紀夫研究会代表幹事)

 今から14年前の平成17年12月10日、元三島由紀夫研究会事務局長にして重遠社代表であったわが同志の三浦重周が郷里新潟の新潟港岸壁で壮絶な割腹自決を遂げたが、その十四回目の命日にあたる12月10日に東京都内で「早雪忌の集い」が開催された。三浦重周は昭和24年生れで、その56年の生涯を文字通りその座右の銘である「決死勤皇・生涯志士」のまま生き抜いた人生であったといえよう。

 昭和45年春、早稲田大学に入学した三浦重周は早速日本学生同盟の早大支部であった早大国防部に加入し、以後民族派学生運動の第一線で活動した。同年秋の11月25日、市ヶ谷台における三島由紀夫先生と森田必勝先輩の憂国の義挙に感奮興起した三浦重周は、以降生涯を通して憂国忌運動の先頭に立って戦い続けた。

 昭和47年のあさま山荘事件と連合赤軍の壊滅に象徴される極左過激運動の終焉により、学生運動に限界を見出した三浦重周は、昭和52年重遠社を創建し、青年・社会人戦線に翼を広げる方向に一歩を踏み出した。また戦後の保守・民族派運動が反共親米運動の枠内にとどまっていたのに対して、三浦重周は戦前の北一輝や大川周明などによる昭和維新運動の伝統の中からあらためて天皇を中心とする維新革命への道を模索する立場をとった。これは三島由紀夫先生の文化防衛論の思想を受け継ぐものであり、更に三浦重周は戦後のマッカーサー憲法に基づく象徴天皇制論による矮小化された国体論を乗り越えて、日本本来の国体を復興回復させることこそ維新革命の根本原理であることを主張した。

 国体論や国家論など三浦重周の思想はその2冊の遺稿集(『白骨を秋霜に曝すを恐れず』と『国家の干城・民族の堡塁』何れもK&Kプレス刊)にまとめられている。すなわち三浦重周は、日本国家とは天壌無窮の神勅を奉じ、万世一系の天皇を戴く他に比類なき国体を誇り、この国体の理想を顕現・発展させてゆくことこそ、わが国史の本質にして精髄であると考えた。戦後の保守勢力は、日本国憲法と日米安保条約を両輪とする戦後体制の護持に執着し、対米従属に甘んじ、国軍としての名誉と誇りを奪われたままの自衛隊の存在を放置してきた。彼らの目指すところは、戦後の平和と民主主義体制の継続であり、むしろ米国への従属体制の下に彼らの権力保全を目論んできたのである。
 三浦重周は占領憲法体制の打破はもちろんのこと、日本の主権を回復し、自衛隊を、天皇を元首と仰ぐ新生日本国家の栄光ある国軍たらしめよう、と大胆に主張した。

 14年前、三浦重周の自決の一報を受けて私の脳裏に浮かんだのは、まず晩年の三島由紀夫先生と濃密な交際を持った歌人・評論家である村上一郎の、昭和50年3月武蔵野市の自宅における三島先生の後を追うが如き自決と、昭和54年5月東京青梅の大東農場で元号法案成立を熱禱して自決した大東塾の影山正治塾長の最期であった。権力とは無縁で、草莽に生き、草莽に死した先人たちを想起させる、三浦重周の志士としての死であった。三浦重周の遺した辞世は「人として大和に生まれ男なら究め尽さむ皇国の道」というものであった。
そして今年5月靖国神社社頭で割腹自決を遂げた沼山光洋烈士もその系譜に連なる存在であろう。

思えばかつて保田與重郎先生が書かれたように、日本の歴史と文化の中心には常に日本武尊、西行、後鳥羽院、芭蕉など詩人が存在し、その道統は幕末維新から現代にまでつながっている。三島由紀夫先生もその一人であり、私は三浦重周もその流れを継ぐ存在だと思っている。日本の歴史は決してときの権力者や政治家がつくるものではなく、天皇を中心とする伝統と文化、すなわち国体の理想を受け継ぎ、その発展を願う一人一人の草莽が紡いでゆくものと信ずる。願わくば天上の三浦重周烈士よ、我らのあゆみを見届け、叱咤激励してもらいたい。それが君の志に報いる道である。