contribution寄稿・コラム

「自覚せよ、我が国最大の抑止力が平成から令和に受け継がれた」西村眞悟

令和元年の御代も、いよいよ大晦日を迎える今、改めて指摘しておく。それは、平成の御代から令和に、何が伝達されているのか、ということだ。本年春の御代が替わる時、マスコミが流す世情において、「平成は戦争のない平穏な時代」だったという認識だけが語られていたように思う。とんでもないことだ。

我が国の数百名を超える国民が、北朝鮮工作員によって拉致され、彼らの救出も阻まれたままの状態は戦争状態ではないか。拉致された国民と彼らの救出を待つ数千名の家族が国内にいることを無視して何が平和か。また、我が国北方の国後、択捉、歯舞、色丹にロシアの軍隊が駐留しミサイル基地を造っている状態、そして、日本海の竹島に韓国軍が駐留し、さらに南方の我が国の尖閣諸島を中共が露骨に奪おうとして、彼の武装した公船が、常時我が国の領海・排他的経済水域を遊弋している状態、一体この何処が平和な状態か。仮に尖閣を奪われれば、台湾は中共の掌中に入り我が国のシーレーンと沖縄本島の維持が困難になる。これらを危機的状態と何故認識できないのか。この危機意識の欠落した日本の情況を、日本の国民を強奪した北朝鮮、日本の領土を強奪したロシアと韓国、今まさに強奪せんとしている中共は、ほくそ笑んで眺めているであろう。強盗は、被害者が被害意識を喪失したとき安堵し喜ぶのだ。

そこで、この状況においても、なお我が国に存在する最大の抑止力は何か!そして、その抑止力が平成から令和に引き継がれているということを指摘しておく。その最大の抑止力とは、「天皇と国民の絆」であり「天皇と国民に忠誠を誓う自衛隊」の存在である。この我が国に存在する最大の抑止力を、平成二十三年三月十一日に発災した東日本大震災において世界が目の辺りに見て驚嘆したのだ。

その三月十一日午後2時46分18秒、宮城県牡鹿半島沖百三十キロの海底でマグニチュード9の大地震が発生した。その瞬間、東京市ヶ谷の防衛省では火箱芳文陸上幕僚長が庁舎の階段を駆け降りながら全国の部隊を救援組織に組み立てた。即ち、昔の用語で言うところの「戦闘序列」を決定して各部隊に「正式命令を待つことなく出動せよ」と命じたのだ。同時期、被災地のまっただ中の多賀城に駐屯する陸自第二十二普通科連隊の連隊長國友昭一佐(大佐)は、射撃練習場から帰隊途中に地震に遭遇し、直ちに上級司令部の第六師団長に被災者救援に部隊を出すと連絡し、連隊の車両が津波に流され、隊員に死者が出ているなかで連隊全員に救援活動を開始させた。このようにして自衛隊には、東北方面総監君塚栄治陸将を指揮官とする陸海空併せて空前の10万7000人からなる統合任務部隊が編成されて救援活動に没頭した。

この自衛隊の発災瞬時の救援行動開始と速やかな10万7000の大動員は、明らかに、十六年前の教訓から生まれた。即ち、平成七年一月十六日の阪神淡路大震災に際し、時の総理大臣村山富市の出動命令を待つことによって自衛隊の出動が遅れたという痛恨で無念の思いである。総理大臣村山富市は、自衛隊は違憲だと主張してきた無能な左翼であり、自分が自衛隊の最高指揮官であり自分が被災国民救出の為に自衛隊を出動させなければならないとは思っていなかったのだ。

この自衛隊の出動の遅れが如何に国民の命に関わったか。阪神淡路と東日本の両地震における警察、消防、自衛隊による総救出者数の中における自衛隊による救出者数を見れば明らかである。阪神淡路では総数5047名の救出者の内、自衛隊の救出者は165名であり全体の3%に過ぎなかった。これに対して東日本では総数2万7649名の内、自衛隊は1万9286名70%を救出するという圧倒的な役割を果たした。この国民の生死を分けた違いは、前者が無能な左翼村山富市の判断を待ったのに対し、後者が陸幕長や連隊長が独断専行したからだ。馬鹿に判断を委ねれば惨害を招く。まさに、「馬鹿な大将敵より怖い」の見本だ。

そもそも左翼と平和ボケは、「シビリアンコントロール」が分かっていない。シビリアンコントロールとは、国家が他国と戦争を開始するには、国民に対して最高の政治的責任を負っている総理大臣や大統領の決定に依らねばならない、軍の指揮官が勝手に戦争を始めるなということだ。よって、戦争ではなく、災害に於ける国民救助においては、直ちに部隊長の判断で部隊が救助に動く、これ当たり前だ。この東日本大震災においても総理大臣は村山富市と同じ無能な左翼菅直人という「敵より怖い馬鹿な大将」だったのだから、陸幕長や連隊長の迅速な行動がなければどうなっていたか身の毛がゾッとよだつ。

さて、この「馬鹿な大将」つまり「戦後政治」の次元を離れて、阪神淡路と東日本大震災において、世界は我が国の何を観ていたのか。世界は、この未曾有の大災害の中において、相互に助け合い秩序を保ち略奪や救援物資の奪い合いのない被災地の日本国民を観て驚嘆した。そして、その被災地には、常に被災者を慰め励ます天皇陛下の姿があった。世界は「天皇と国民の絆」を観て感嘆したのだった。即ち、この時、我が日本の統治者は天皇陛下であった。官邸と東電本社で喚くだけの総理大臣菅直人ではなかったのだ。

従って、自衛隊の10万7000の統合任務部隊の指揮官である君塚栄治東北方面総監は、被災地激励のために自衛隊機で松島基地に降り立たれた天皇陛下に対し、鉄兜に野戦服の姿で正対し敬礼してお迎えした。この時、統合任務部隊は「天皇の自衛隊」であった。そして、彼らは、国民を救出し救援することに寝食を忘れて没頭していった。

このように、「天皇と国民の絆」と「天皇と国民に忠誠を誓う自衛隊」、即ち我が国最大の抑止力が、平成から令和の御代に伝達されたのだ。

最期に、上部が吹き飛んだ灼熱の福島原子炉建屋の冷却作戦において、アメリカ軍と中共軍の将官がなんと言ったのか記しておく。原発対策を指揮していた中央即応集団(CRF)の宮島俊信司令官は、隷下の第一ペリコプター団の金丸章彦団長に、3月16日午後11時30分、明日、灼熱の原子炉の上から水を撒けと命令した。それを知ったアメリカ軍の将官は驚いて、「人の命を何とも思わないような作戦はするな」と言った。しかし、第一ヘリコプター団は翌早朝、二機のCH47を原子炉上空にホバリングさせて合計30トンの水を灼熱の原子炉に落とした。この映像は世界に流れた。すると、東京市場の株価が下げ止まった。また、中共軍の将官が、金丸団長等に次のように言った。「日本人は、戦前も戦後も、全く変わっていない。簡単に命をかけてくる。もし、日本に向けて核弾頭ミサイルの発射準備を開始したら、日本人は確実に飛行機に爆弾を満載してそのミサイルに突っ込んでくるだろう。」