contribution寄稿・コラム

バシー海峡と台湾と 桂和子(正しい歴史を伝える会)

 

青い青い空でした。見渡す限り真っ青な空でした。そんな中、バシー海峡慰霊のために建てられた寺、潮音寺が白く輝きながら建っていました。

令和元年11月17日台湾の潮音寺で、今年のバシー海峡戦没者慰霊祭が斉行されました。台湾に住む日本人の若者達を中心に、台湾人や(日本からのお坊さんも含めた)日本人参加者が加わり、100名以上で賑やかに執り行われました。2015年から毎年青年達によって主催され、今年で5回目を迎えたのです。それ以前は台湾人がお寺を守り、慰霊祭を斉行していました。

バシー海峡は台湾とフィリピンの間の海峡を指します。そこでは戦時中日本の輸送船団が次々とアメリカ潜水艦に撃沈され、「輸送船の墓場」と呼ばれました。犠牲者は軍人、民間人も含め10万とも20万人とも言われています。今も海底に多くの犠牲者が眠っていることでしょう。当時は連日のように次々と遺体が台湾のU字型の湾に流れ着き、現地の人達がその遺体を集め、荼毘にふしました。

潮音寺を建立した中嶋秀次氏はバシー海峡で攻撃を受け、炎熱のバシー海峡を12日間も漂流して奇跡の生還を遂げた人です。中嶋は亡くなった戦友の鎮魂のために戦後の人生を捧げ、長い年月と自分の資材を全て投げ打って、バシー海峡が見渡せる丘に寺を建てたのです。

毎日を時間に追われ生きている私達は、つい何も考えず毎日を送ってしまいます。けれどこうして戦後50年もたって産まれた青年達が行動して、台湾人や多くの日本人が参加して開催された慰霊祭、亡くなられた方達も喜んでいるでしょう。

1895年~1945年の50年間、台湾は日本により統治されました。日清戦争の結果下関条約によって、清から日本に割譲されたからです。当時の台湾は統一の言語も文字もありませんでした。そんな台湾で日本はインフラを作り、学校を作り、言葉を統一し、文字を教えました。

例えば、台湾南部に広がる嘉南平原は大河川が存在せず、降水量も乏しい地域で、秋から冬にかけては荒涼とした荒野のようになっていました。そんな所に総督府技師の八田与一は10年の歳月をかけて、当時東南アジア最大の烏山頭ダムを作りました。お陰でその地域は米、サトウキビ、等の三期作までできるようになり、生活水準が大きく上がりました。八田与一の話は学校でも教えられ、八田の銅像の周りには今でも花が絶えません。

戦後台湾には国共内戦に敗れた中国国民党とその軍隊が台湾に逃避してきました。その後から中国共産党の毛沢東軍が攻め込もうとしましたが、それを防いだのが根本博中将です。門田隆将著「この命、義に捧ぐ」に詳しく出ていますが、『これぞ日本軍人』と日本人として誇りに思います。

しかし台湾人が苦労したのはそれからでした。蒋介石は新たに台湾に住みついた外省人を優遇し、古くから台湾に住む内省人を弾圧したのです。その最大規模と言われるのは、1947年に発生した二・二ハ事件ですが、内省人知識層の3万人が犠牲になったと言われています。

 その後台湾は1988年~2000年まで中華民国総統を務めた李登輝氏により、国民党の独裁体制を廃し、台湾の民主化を促進し、台湾の歴史教科書「認識台湾」で、日本の統治時代を再評価しました。更には現在も李登輝は台湾独立運動に影響を与えています。

 中国が香港の次に狙うのは台湾、そして日本、とも言われ、来年年明けの台湾の総統選挙を世界が注視しています。