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【教科書で教えたい近現代史】 (その9) 鳥居徹夫(元文科大臣秘書官) 世界が驚愕した明治日本、産業を興し近代国家へ

■ 昨年平成30年は、明治150年 

 

 昨年平成30(2018)年は、明治150年であった。

 

 日本は、ペリー来航からわずか50年あまりで近代的な産業国家を建設した。

 幕末から明治にかけてのアジア地域は、ヨーロッパ諸国の強大な武力によって抑圧され、その波が日本にも押し寄せようとしていた。

 そのような状況下で、明治日本の先駆者たちは日本の主権と独立を維持するため、獅子奮迅の奮闘の連続であった。

 鎖国をしていた日本が開国し、西洋技術を取り入れながら、自国の伝統の技を融合させながら、自らの力で人を育て、産業を興した。

 海外の科学技術と自国の伝統の技を融合し、産業化を成し遂げた。 

 

 ペリー来航の10数年前、1840~42年のアヘン戦争で、中国大陸の大国「清国」がイギリスに大敗し、領土の割譲(香港など)と莫大な賠償金を支払わされた。

 

この危機に直面し、幕府は海防の危機感から長年の方針を転換して蒸気船と鉄製大砲の建造に挑戦したが、蒸気船の建造も実用的な鉄製大砲づくりも困難を極めた。

 

欧米諸国は、煙を上げて走る蒸気船と遠くからでも撃てる大砲を持っている。日本を植民地化から守らなくてはならない。

 

盛岡藩士の大島高任は鉄鉱石を原料に洋式高炉で鉄をつくった。日本を守りたいという海防の一念から、反射炉をつくり蒸気船に挑戦した。

産業国家建設による国の発展を願った若い志士たちの熱い思いが原動力となり、試行錯誤が繰り返された。

 英国のグラスゴーの造船所で学び、後に工部卿となり「明治日本の工業の父」と称された山尾庸三(1837~1917年)は「人を作れば、その人、工業を見いだすべし」との格言を残した。

人材の育成においても、多くの藩校や松下村塾(山口県萩市)などが、多くの指導者を輩出した。

明治日本の先駆者たちは日本の主権と独立を維持するため、獅子奮迅の奮闘の連続であった。

それらが今日の、世界に冠たる「ものづくり立国」の屋台骨を作ったと言えるのではないだろうか。   

 

■ 世界中が驚いた日本の近代化 

 

日本は、徳川幕府の下、200年余りにわたって国を閉ざし、外洋を航海する大型船の建造を固く禁じていた。

それまでは小さな船だけであり、唯一の学問は長崎出島で蘭学(蘭書)であった。

 嘉永6(1853)年、ペリー提督率いるアメリカ合衆国東インド艦隊が江戸湾に来航すると、日本は騒然とした。

幕府は長年の方針を転換して蒸気船と鉄製大砲の建造に挑戦したが、蒸気船の建造も実用的な鉄製大砲も、困難を極めた。

産業国家建設による国の発展を願った若い志士たちの熱い思いが原動力となり、伝統的な匠の技とあいまって試行錯誤を繰り返し、今日の世界に冠たるものづくり立国の屋台骨を作ったと言える。

長年の鎖国から国を開き、世界にも類を見ない劇的な産業化によって、国を守った明治の人々の決死の覚悟そのものであった。

 西欧諸国以外では初めて、植民地にならずして産業革命の波を自ら取り込んで近代国家に変貌を遂げた日本に、世界中が驚いた。

19世紀後半から20世紀の初頭にかけ、日本は工業立国の土台を構築し、造船、製鉄・製鋼、石炭と重工業において急速な産業化を成し遂げた。

 

 岩崎弥太郎が、三菱財閥を作った理由は、それは明治維新の大改革(廃藩置県など)で、藩がなくなり失職した武士を集めて、工業・商業を興すこと、そして英語を学び契約の思想を身につけることであった。

 

明治29(1897)年、明治政府は鋼鉄製造のため筑豊炭田に近くの筑豊八幡村(現在の北九州市)に官営の製鉄所をつくった。

日本初の銑鋼一貫製鉄所、官営八幡製鐵所(新日鐵住金㈱の前身)である。

まさに、鉄は国家なりで、素材産業を作ることは日本の悲願であった。

 

石炭は、かつて黒ダイヤと呼ばれていた。日本で初めての近代炭鉱が長崎の沖合に浮かぶ高島に誕生する。

高島炭鉱は佐賀藩主の鍋島直正がグラバーとの合弁で始め、明治2(1869)年イギリス人技師モーリスにより深さ44mのところで着炭に成功した。

 

後に高島炭鉱に近接する端島に海洋都市を構築する。

端島には日本初の鉄筋コンクリートの高層アパートが次々建設され、軍艦の形に似ているため軍艦島と呼ばれるようになった。

三池炭鉱は明治時代、世界でも最先端の機械を導入し近代化を図った大炭鉱だった。蒸気の糧を運ぶため鉄道が敷かれ、港ができ、そして街が生まれた。

三池港の建設により石炭の輸送コストを半分にした。

三池炭鉱からは、三池港、三角西(旧)港から石炭を搬出し、上海港には九州からの石炭が次々と荷揚げされた。

このように明治日本は、産業システムやインフラを困難の中から構築した。

 

これまでも明治という時代は、廃藩置県や文明開化、四民平等の近代国家づくり、富国強兵などが、教科書や歴史書などでとりあげられてきた。

とりわけ列強のアジア・中国の植民地化が進む中で、日本は日清・日露戦争を勝ち抜き、主権と独立をまもり、さらに欧米列強から余儀なく締結させられた不平等条約を平和裡に改正できたことが、世界から大きく注目された。

その明治日本を支えたのは、近代産業国家づくりを目指した明治の先駆者たちであった。

 

■ 世界で驚愕した「明治日本の産業革命遺産」 

 

その明治150年を目前にした平成27(2015)年、「明治日本の産業革命遺産」がユネスコの世界遺産に登録された。

 

世界が称賛する「明治日本の産業革命遺産」は、軍艦島だけではない。釜石市の鉄鉱石を原料にした洋式高炉跡や、鹿児島の寺山炭窯跡、そして伊豆韮山の反射炉など23施設(8県11市)に及ぶ。

19世紀後半から20世紀の初頭にかけ、日本は工業立国の土台を構築し、造船、製鉄・製鋼、石炭と重工業において急速な産業化を成し遂げた。

 

150年前の明治日本という変革期は、幾多の困難をのりこえ、産業国家をつくり上げた。そしてその現存する遺産群が、世界遺産となった「明治日本の産業革命遺産」なのである。

 

一連の産業革命遺産群は、西洋の技術が移転され、日本の伝統文化と融合し、実践と応用を経て産業システムとして構築される産業国家形成への道程の生きた証言である。

 

■ 韓国のウソに敢然と反論し、正しい歴史を発信しよう‼ 

 

いま韓国は、産業遺産となった軍艦島が強制連行の舞台であったかのような、日本タタキのプロパガンダを展開している。

 

韓国が「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録への反対姿勢を強めたのは、世界遺産の登録審査の最終段階になってからであった。それまで韓国からは、ユネスコに推薦申請した時も含め反発らしきものはなかった。

 

大東亜戦争の時は、朝鮮半島の人々は日本国民であった。言うまでもなく「自国民としての戦時徴用(勤労動員)」であり、賃金も支払われており、強制労働ではないことは歴史的事実として明らかである。

 

そもそも、明治期の産業革命遺産と、大東亜戦争期の戦時徴用は、時期的に無関係である。 

 明治150年の評価を貶める勢力(朝鮮半島などを含む)や、一部論調には、日本を否定的にみたいという不純な動機なのであろう。

 

韓国は、ウソでも捏造写真でも、世界に大々的に発信する。

徴用工問題などの、いわれなき外圧には政府全体で反論し対処していく体制づくりが問われている。

そもそも外圧や外交的配慮で、歴史の改ざんとか、行政が歪められてはならないのである。

 そもそも歴史は国家の主権の問題である。他国がどう反応するかではなく、正しい歴史事実を発信することはもとより、外国による間違った歴史認識については、キチッと反論すべきなのである。

 

■ 日本は主権国家、自国の歴史と伝統文化に誇りを 

 

外務省の役人、外交官はもとより、政治家も日本のマスコミも、明治の歴史を知らない。それゆえ外国に対し自国の歴史を説明ができない。

 

こともあろうに野田聖子総務相(当時)は、明治150年の平成30(2018)年1月15日に金沢市で、安倍内閣の閣僚でありながらも、「明治は一握りの強い人が国を支える社会だった」と講演した。これは左翼野党から閣内不一致との追及を受け、野田氏も発言を撤回した。

まず日本の歴史を熟知し、外国の間違った日本歴史認識については、キチッと反論すべきなのである。

 

明治日本の気概に学び、外務省などは日本の名誉と国益に沿った外交を身に付けなくてはならない。

 

  150年前の明治維新という変革期、また明治という時代は、困難な状況下でありながら、産業国家を作り上げた明治日本の先駆者たちの苦闘とその気概を、あらためて認識することが、いまを生きる私たちに問われていると思う。

 

日本は主権国家であり、自国の歴史と伝統文化に誇りを持たなくてはならない。

党派を超えて日本全体が一体となった、正しい歴史・史実の発信の体制づくりが求められることは言うまでもない。