ken「筆は剣よりも危うし」

【筆は剣より危うし】 三澤浩一(武客) ー沼山光洋さんに感謝と尊敬の意を表しますとともに哀悼の誠を捧げますー

沼山光洋さんが5月11日に自決されてから、早くも2ヵ月が過ぎました。

神道での五十日祭も、仏教での四十九日忌も済んでしまっている時が流れましたが、悲しみは弱くならず、逆に強くなるばかりです。

新暦の御盆を迎え、靖国神社では「みたままつり」が執り行われる季節となりました。

街を歩いていると、桃の販売をしているトラックを目にします。

この時季、沼山さんは大きなトラックを運転して、茨城県や福島県などに桃を仕入れに走っていました。

これからの時期、国事に奔走する沼山さんは、私事に使う時間がなくなるため、すなわち生活のための仕事をする時間がなくなるため、沼山さんは時間が許す限り、桃の仕入れを手伝って稼いでいました。

寝る間も惜しんで働き、稼げるだけ稼ぎ、その稼ぎを費えとして、国事に挺身していました。

沼山さんから美味しい桃を山のようにいただくのが、この数年の楽しみの一つでもありました。

桃を見ると、また沼山さんの笑顔を思い出してしまいます。

これからは、どんなに甘い桃を食べるときでも、きっと涙でしょっぱくなることでしょう。

さて、「沼山光洋さんを追悼し感謝する集ひ」を令和元年6月23日(日)午後1時より靖国会館において、多くの皆さんと心と力を一に合わせて執り行いました。

その報告を述べなければと思いつつ、どのような式だったかについては、式の最中には涙を流れしているばかりで、実は全く記憶がありません。

情けない限りですが、いまだに放心状態ですから、正確な報告とはならないでしょうが、ご海容ください。

当日の次第や進行表などを見ながら、事務的な報告となります。

司会は小澤直人さんが務め、式をはじめるに先立ち国民儀礼を行い、その指揮は小松良匡さんが執りました。

はじめに「沼山光洋さんの志操と行動」を友人一同を代表しての挨拶を兼ねて、荒岩宏奨さんが申し上げました。

つぎに遺詠奉読は榎本隆生さん、つぎに遺言奉読は石田和久さんが務めました。

つづいて追悼挨拶は恩師の先生方が述べられました。

民族派として阿形充規先生、保守派として阿羅健一先生、靖国会の総代として田母神俊雄先生が、沼山さんの思い出を交えて、追悼の挨拶を述べてくださいました。

つぎに「嗚呼神風特別攻撃隊」、つぎに「海ゆかば」を全員で奉唱いたしました。

つぎに沼山光洋さんへ感謝状の贈呈を行い、松澤正明さんが感謝状を読み上げ、ご霊前に捧げました。

そしてご遺族が挨拶を述べました。

おわりに聖壽萬歳を福永武先生の先導で行いました。

それから拝礼となり、遺族、恩師、来賓と各々拝礼を行い、式場の内の方々が済んだ後、式場の外で待っていてくださった方々と、多くの皆さんが拝礼されました。

拝礼のときには、中村あゆみさんの「ひまわり」という曲が場内に流されました。

祭壇などにもひまわりの花が供えられていたように、ひまわりは沼山さんが愛した花です。

この「ひまわり」という曲は、神風特別攻撃隊への鎮魂歌ともいわれているため、場内で流しました。

もちろん「ひまわり」という曲名も選曲理由の一つです。

当日の参列者ですが、靖国会館の外にも多くの方々が並んでくださり、700名を超える方が来られたと聞いています。

北は北海道から、南は沖縄県から、多くの皆さんが沼山さんの御霊と会うため、参列してくださいました。

沼山さんの人徳によるものと感激いたしております。

悲しい日でしたが、嬉しい日でもありました。

なお、6月16日(日)午後6時より「沼山光洋之命葬場祭」を執り行いました。

沼山さんが愛した青梅の大東農場には、沼山さんが崇敬していた大東神社が鎮座されています。

大東会館学生寮の学生たちが、大東農場において農事合宿をするとき、沼山さんも飛び入りで参加して、学生とともに汗を流しながら、農作業に勤しんでいました。

休憩時間には、農地ではない空き地に、ひまわりの種を蒔いていたことを思い出します。

沼山さんが愛した地にある武道場において、大東神社の福永武宮司を斎主として、神葬祭を内々の密葬として執り行いました。

尊敬していた福永宮司をはじめとする大東神社の方々による神葬祭は、沼山さんが希望していた葬儀であり、沼山さんの希望を叶えることができましたことを感謝いたしております。

来年以降、神道では一年祭、二年祭……と執り行われていくことになります。

慰霊のためです。

と同時に、沼山さんを顕彰して、沼山さんの遺志を継承するため、広く呼び掛ける行事も必要と感じています。

三島由紀夫烈士と森田必勝烈士には憂国忌や野分祭など、野村秋介烈士には群青忌、三浦重周烈士には早雪忌があります。

神道の年祭や仏教の回忌とは異なる追悼と顕彰の行事です。

沼山さんにも、このような行事を執り行うべきと、友人が集まり、あれこれと考えています。

荒岩さんが素晴らしい名前を提案してくれました。

「緑光祭」

沼山さんの遺詠から命名したものです。

境内を埋める花びらなげあそぶ子らの上にはさみどり光る

この歌は、沼山さんの遺詠の代表作といえます。

靖国神社での光景を詠んだ歌です。

不二歌道会の福永真由美先生が毎月ご指導されている大東会館歌道講座において、その月例の講座で「天」という高い評価をいただいています。

緑光祭は、この歌からの命名です。

また、沼山さんのお名前の「光洋」からも「光」の1文字が入ります。

さらに沼山さんが自決した5月は新緑の季節です。

これだけピッタシの命名はありません。

さすが荒岩さんだ!と感服いたしました。

「忌」ではなく「祭」としたのは、「忌」は仏教で「祭」は神道を意味するからだとのことです。

まだ正式には決まっていませんが、この緑光祭を核として、これからを進めたいと願っております。

語り継ぐことがなぜ必要なのか…、沼山さんの言葉を思います。

沼山さんが誕生された後、昭和40年以降、国を憂いて、靖国神社または周辺で割腹自決されたのは、沼山さんが3人目となります。

昭和48年11月20日には土方英次さんという方が靖国神社社頭で、同49年2月11日には大橋正文さんという方が靖国神社拝殿前で、割腹自決されています。

しかし現在、このお二人を知っている方はほとんどいません。

大東亜戦争開戦七十年の平成23年12月8日、杉田智さんという金沢大学の学生さんが石川護国神社で割腹自決されましたが、今でも覚えている人はどのぐらいいるでしょうか。

もっとも他人さまをとやかくいう前に、尊い命を懸けた方々を忘れてしまっていた自分自身の愚かさをまずは叱りつけたいと存じます。

沼山さんが述べていた語り継ぐことの大切さを痛感させられました

来年の5月11日には、どんなに少ない人数でも、緑光祭が執り行われることを熱望しています。

三澤浩一

【追伸】

靖国会のホームページが契約の関係から凍結されており、多くの皆さんからお問い合わせをいただきました。

ご心配いただきましたが、ご安心ください。

そのままでは消滅する危機でしたが、荒岩さんの機転と尽力によりまして、無事に復活いたしました。

これで、沼山さんの遺志を継続して伝えることができます。

靖国会のホームページは次の通りです。

http://yasukunikai.com

以上ですので、ご高覧ください。

また、多くの皆さんがご心配くださいました靖国忠霊祭ですが、沼山さんが準備してくれたおかげで、今年も8月15日の午後1時より執り行います。

沼山さんの使命感、責任感に感謝するとともに、感動すら覚えます。

詳細は後日あらためてご案内いたしますので、ご参列の程お願い申し上げます。