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【教科書で教えたい近現代史!(その1)】  鳥居徹夫(元文科大臣秘書官)

ハリマオと呼ばれたイスラム教徒=谷 豊
徴兵検査で不合格の青年が、靖国神社で英霊に!
 
昭和35(1960)年頃に『快傑ハリマオ』というテレビ映画が放映され、人気を博した。ハリマオはマレー語で「虎」のことである。
このテレビ映画は、大東亜戦争の前後にマレー半島で日本軍に協力したマレーの虎、谷 豊(たに・ゆたか)をモデルにしたという。
次の参考図書からの抜粋であるが、この史実を紹介したい。
関係書籍としては中野不二男著『マレーの虎 ハリマオ伝説』(新潮社)、藤原岩市著『F機関』(バジリコ)、土生良樹著『神本利男とマレーのハリマオ』(展転社)などがある。
 
■徴兵検査に不合格の青年が、敢然と復讐■ 
 
日本からマラヤへ移住してきた谷豊の一家は、いまのマレーシア北東部の街(クアラ・トレンガヌ)で小さな理髪店を開業した。街には移り住んできた日本人も多かった。
昭和7(1932)年、谷豊は、徴兵検査のために一時帰国していたが、不合格で軍には採用されなかった。身長がわずかに足らなかったという。
 
その時、マラヤにいた谷豊の一家に悲劇がおそった。
谷豊の弟・繁樹が、学校から自宅に戻ろうとしたとき、シナ人の暴徒集団が日本人商店の襲撃を始めていた。
繁樹は、ひとりのシナ人が手に生首をぶら下げて歩いていくのを見た。暴徒が去ったあと、自宅に戻った繁樹が目撃したものは、血まみれになった首のない妹シズコの惨殺死体だった。
 
余りにもショッキングな出来事であり、この事件がハリマオこと谷豊の人生を大きく変えた。   
妹がシナ人に惨殺されたことを福岡で知った谷豊は、単身マレーに渡り、犯人探しを始めた。ところが下手人のシナ人は裁判にかけられたものの、無罪放免で消息不明になっていた。
 
谷豊は、統治者のイギリス官憲に強く抗議するが、逆に不審者として一時投獄されてしまう。さらに日本の政府関係者にも懇願するが、誰も取り合わない。
この時、ハリマオ(谷豊)は21歳。
ひとりで復讐を開始する。
 
裕福な英国人の豪邸に忍び込み、また金満華僑も標的にし、金品を盗み取るなど、義族的な活動は広がりを見せ始めた。
マレー人の配下も増え続け、ついには金塊を積んだ鉄道車両の爆破など大規模な行動も展開した。
 
この頃、すでに谷豊は日本名を棄てハリマオの愛称で通していた。新しい部下は谷豊が日本人であることすら知らなかったという。
 
■ハリマオは日本人のようだ■ 
 
大東亜戦争の開戦前になると、ハリマオの名は、マレー半島北部で大盗賊集団を率いる大頭目として名を馳せていた。部下の数は3千人と称され、植民地(マレー)を支配する英国人や金満華僑を震え上がらせていた。
人を殺めることはないが、各地で襲撃を繰り返すハリマオに、莫大な懸賞金が懸けられていた。
 
開戦前、「マレーの有名な盗賊ハリマオは日本人のようだ…」というウワサが聞こえていた。 
そこで神本利男(かもと・としお 1905~1944年)大佐は、ハリマオが日本人であれば協力を求めようと考え、マレー半島に潜入した。
マレー人の協力が得られなければ、マレー戦線での戦闘を有利に進められないことは火を見るより明らかだった。
 
神本は、ハリマオ=谷豊を探し出し、いきなり日本軍への協力を仰ぐ。
しかし谷豊は、マレー語で「俺は日本人ではない」と叫んだ。
 
谷豊は複雑な胸中を語った。実の妹の殺害事件を日本政府に訴えても「あきらめろ」と言われ、あげくの果ての「盗賊など恥さらし」と罵倒されてきた現実を切々と語った。
谷豊は、自分が日本という国から見捨てられたと感じていた。
 
神本は「この半島は、まもなく戦場になる。この地をマレー人に戻したい。そのために君の力を貸してくれないか」と説得する。
神本は、マレー半島が白人に400年間支配されてきた歴史を説き、バラバラの反政府運動がすべて簡単に弾圧され、失敗してきた史実を切々と語った。そして「日本軍に現地人が協力してくれるなら、必ず英軍を駆逐して植民地支配を終わらせることが出来る」と訴える。
 
ハリマオ=谷豊は、神本の人間的な魅力に引き寄せられて説得に応じ、敢然として反英活動に邁進する。
復讐のためにマラヤに戻ってから10年近くが経過しており、谷豊は30歳になっていた。
 
■日本軍は2日間で「ジットラ・ライン」を突破■
 
イギリスの最重要拠点はシンガポールであり、開戦となった場合、日本軍が目標にすることは明らかだった。
イギリスは、日本軍はタイ国境を越えてマレー半島を縦断して進撃すると想定した。
イギリスにとっては、マレー半島の北部に要塞を建設し、日本陸軍の動きを止めることが急務となった。
 
イギリス軍はタイ国境から30キロ南の小さな集落ジットラに防禦陣地を建設していた。
これがマレー戦記に登場する「ジットラ・ライン」である。
その陣地建設の現場にハリマオ一党が浸透していた。
 
マレー人労働者にサボタージュを呼びかけ、セメントなどの重要資材を湿地に投げ捨てたり、英軍の通信線を切ったりした。またトーチカの場所や地形などを調査し、詳細な地図を日本陸軍に送ったという。
英軍は「いかなる攻撃でも3ヵ月は持ちこたえる」「その間に、本国から援軍が到着し、挟み撃ちで勝利する」と豪語していた。
ところが戦端が開かれると日本帝国陸軍は、わずか2日間でジットラ・ラインを突破した。
 
3ヵ月と豪語した陣地が、たった2日。
谷豊らハリマオ一党のイギリス陣地建設の遅延工作が実った結果でもあった。
 このためイギリスは、アジアに軍を回す必要がなくなり、ヨーロッパ戦線(対ドイツ戦)に全力投入できたのである。
 
■シンガポール陥落の直後に、終生の別れが■
 
大東亜戦争の開戦2ヶ月前、バンコクにひとりの情報将校が赴任する。
藤原岩市参謀(開戦時少佐、1908~1986年)で「ハリマオ工作」の名付け親であった。
 
藤原参謀が、ハリマオ=谷豊と2人が対面を果たすのは、開戦のちょうど1ヵ月後、ハリマオ一党が英軍陣地の背後に向かう直前の出会いだった。
藤原参謀は、ダム破壊工作の成功を称えた。そして「君のこのたびの働きは、戦場に闘っている将校や兵にも優る功績だよ」と、労いの言葉をかけた。
だがその時、谷豊はすでにマラリアに冒されていた。日本軍が快進撃を続ける一方で、谷豊の病状は悪化していた。
 
神本利男は担架に谷豊を乗せて、ジョホールバルの陸軍病院に運び込んだ。
ジョホールバルは、マレー半島の最南端の都市で、海峡のすぐ向こうがシンガポール島である。
ハリマオ一党の最終目的は、日本軍をシンガポールに進めることだった。谷豊は自らに課せられた使命を、ようやく終えようとしていた。
 
藤原参謀と谷豊の再会は、シンガポール陥落直後。シンガポールの兵站病院の一室だった。
昭和17(1942)年3月17日、ハリマオとして名を馳せた谷豊と藤原参謀は、終世の別れとなった。
 
ハリマオは白い布に包まれた。享年31歳。
臨終を見守っていた配下のマレー人が、日本軍に求めたのは白い布2枚だけだった。それはイスラム葬で遺体を包むのに必要なものだった。
谷豊の棺は部下たちに担がれ、シンガポールのイスラム墓地にひっそりと埋葬された。
 
藤原参謀は、直ちに谷豊を正式の軍属とするよう陸軍省に登記を求めた。
徴兵検査に不合格だったハリマオ・谷豊は、戦雲が急を告げるころ、白人諸国(欧米)の植民地支配と(中国大陸の)華僑の経済支配という「二重の支配」からの解放に大きな功績を残した。
 
そしてイスラム教徒の「ハリマオ=谷豊」は、英霊として靖国神社に祀られた。
https://www.youtube.com/watch?v=LOTUFFQZ7OU