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【なるほど納得政経塾㊱】 「北方領土基礎知識」   神奈川大学経済学部教授 経済学博士 小山和伸

 今回は前回に続いて、ルーマニアのシビュー大学における講演内容を紹介するつもりだったが、予定を変更して表記のように「北方領土」の基礎知識について述べることにする。ちょうど大阪でG20が開かれ、安倍首相もプーチン大統領と会見するし、また北方領土について「戦争して取り返す」という趣旨の国会議員発言が色々取りざたされている最中だが、一番肝腎な議論が全く押さえられていないと思うからである。
 
 北方領土問題は、先ず安政2(1855)年の「日露和親条約」に遡る。この時、千島列島の境界は択捉島とウルップ島の間に定められ、国後・択捉・歯舞・色丹のいわゆる北方四島が日本領に確定した。他方、樺太における日露境界線は確定できず、両国民の雑居地とされたが、紛争が絶えなかったため、明治8(1875)年の「千島・樺太交換条約」に至る。この時点で、日本は樺太全島を放棄する代わりに、千島全島を領有した。
 
 さて、プーチン大統領はこの北方四島の不法占拠について、しばしば「第2次世界大戦の結果である」と述べているが、ソ連軍の千島最北端占守島への侵攻が、停戦協定後の8月18日だったことは、是非銘記しなければならない。つまり、ソ連軍は戦争が終わってから千島列島に侵攻したのである。
 
 占守島守備隊は、優勢な自衛戦闘を展開したが、根室の北部方面軍司令部の命令により、降伏し、守備隊はシベリヤに抑留された。その後ソ連軍は、択捉島8月28日、国後島・色丹島9月1日、歯舞群島9月3日というように占領していった。要するに、ソ連軍の千島占領は、第2次世界大戦の結果などではない。この点を、日本は世界に向けて公言・力説すべきである。
 
 プーチン大統領も安倍首相も、昭和31(1956)年の「日ソ共同宣言」ばかりを強調するが、それ以降の日露合意をなぜ無視するのか、全く不可解でならない。例えば、平成3(1991)年に海部・ゴルバチョフの間で取り交わされた「日ソ共同声明」では、北方四島が平和条約において解決されるべき領土問題として明記されているし、平成5(1993)年の「東京宣言」でも、細川・エリツィン間で北方四島の島名を掲げて、領土問題の存在を明記している。さらに、平成10(1998)年の「川奈合意」でも、橋本・エリツィン間で北方四島の帰属問題解決への合意が明記されている。平成15(2003)年には、小泉・プーチン間で北方四島の帰属問題を解決して平和条約を結ぶための「日露行動計画」が締結されている。
 
 確かに、国会の批准を受けたのは「日ソ共同宣言」だけかも知れないが、国際的な条約や合意においては、最新のものが優先されるのが通例である。その意味で、安倍首相が「日ソ共同宣言」のみを重視する姿勢は、歴代内閣の苦心を台無しにする暴挙であると言わなければならない。
 
 前述の如く、何かというと「第2次世界大戦の結果」と強弁するプーチン大統領だが、そもそも第2次大戦におけるソ連軍の対日参戦は、昭和21(1946)年4月25日に失効する「日ソ中立条約」が未だ有効期限内にあった、昭和20(1945)年8月9日に行われたことを忘れてはならない。
 
 さらに、この国際法違反の対日参戦によって、満州および樺太等のソ連軍占領地域において、いかに残虐な犯罪行為があったかも問い糺されねばならないはずである。戦時国際法に基づいて兵民分離を行った日本に対して、国際法上保護しなければならない無辜の市民を虐殺陵辱した罪過は忘れられて良いはずはない。50万人とも60万人ともされる日本兵の抑留、5~6万人に上る虐待死、またしかりである。
 
 ちなみに、千島列島における民間人の犠牲が比較的少なかったのは、日本軍守備隊の優勢な自衛戦闘の間に、婦女子を含む多くの日本人島民を避難させることができたためである。日本軍司令部の停戦命令は、返す返すも残念でならない。千島列島での対ソ戦を、大東亜戦争に続く新たな「千島戦争」と定義して戦い続け、ソ連軍を寄せ付けなかったなら、千島列島の領有はどうなっていたであろうか。
 
 最後に、数年前モスクワにあるロシアの財務財政大学のアファナッシブ学長が、神奈川大学を訪問した時の話を紹介したい。当時の中島神奈川大学学長の「北方領土の問題を学生達に正しく教えていますか」との質問に対し、アファナッシブ学長は「ソ連軍が最北端の占守島に攻め込んだのが、停戦協定の3日後だったと教えています」と答えた。これに対し中島学長は「学生の反応は?」と訊ねた。アファナッシブ学長の答えて曰く「我々の祖先はそんな卑怯なことをしたのか。それならば四島ばかりではなく、占守島まで全部日本に返すべきだという学生が少なくないのです」。