contribution寄稿・コラム

ー眞の保守の登場を切望すー   我が國語を愛し學ぶ國民の會 代表  高見澤絹江

一 タタミゼの示す物
 
仏國にタタミゼと言ふ造語が在るさうだ。日本語を學んだ人々がまるで日本人の樣な物言ひ物腰に變化する樣を指すさうである。此の事は、國民は何を以て國民と成るかと言ふ事を示唆してゐる。日本に生れたから、日本に居るから日本人なのではない。日本語を覺え、日本語で考へ、日本語で話し、そして其の文化歷史を知つて行く事で日本人に「成る」のであらう。
殖民地支配で先づ言語の剥奪が行はれるのは周知の通りであるが、「言語こそが國民を形成する」のであれば至極当然であらう。
誠に残念ながら此の日本に於ても國語の解體は行はれた。そして、今現在も其れは継續中で在り、悲しい哉「保守」を自稱する人々すら其れに加擔してゐるのである。
 
二 保守がゐない
 
よく「縦軸」とか、或は「先人は大東亞戰争を戰つたのだから太平洋云々では伝はらない」等と仰有る方がゐる。だが、さう言ふ側からプラットフォームだのパネラーだのネームリストだのと片假名語を乱發する事に自己矛盾は御感じにならないのだらうか。先人に片假名語では通じないとは御思ひにならないのは何故であらうか。或は、元號で表示しなければ先人には伝はらないとは何故御考へにならないのであらうか。更に、惡評高い彼の新聞社さへ堅持してゐる縱書をあつさりと止め、横書の印刷物を作つて恥ぢない人々は何を保守してをられるのか。
そもそも、現代假名遣ひなる國語破壊が行はれ、更に平假名表記からロウマ字表記へと我が國語破壊の道筋に気附き、危惧してをられる方はどれ程をられるだらう。
 
三 眞の保守とは
 
明治或は昭和初期の作家の文章は大變に格調高く日本人の精神性を感じる事が出來る。しかし、現在巷に溢れる文章は、締りの無い精神の幼稚さを露呈するかの樣な文ばかりである。文中に片假名語が多ければ多い程、締りの無さは倍加すると感じるのは私一人の氣の所爲だらうか。「片假名語(英語)を使ふのは文化的な進歩である」と仰有る方がゐるさうだが、先に述べた通り、進化してゐるとは到底思へた物ではない。第一、自國語を排斥する事が進化だとする人が、果たして「保守」であらうか。
我々は今一度、一體「保守とは何か」と言ふ事を考へ直す時ではないだらうか。國の根幹を保守するとはどう言ふ事か考へる時ではないだらうか。
憲法の所爲か、GHQの所爲か、さうではない。日本人自らの手で國語は破壊され續けてゐるのだ。
眞の保守の登場を切望して止まない。