contribution寄稿・コラム

【「戦後、十一宮家が一斉に臣籍降下することに。」】 村田春樹

前号では大正九年三月十七日の皇室典範準則、「長子孫の系統四世以内を除くの外、勅旨に依り家名を賜ひ華族に列す。」について論じた。つまり五世以下は強制的に臣籍降下することになったのである。これに対し皇族は天皇の賜餐をボイコットするという暴挙に出たことも前号で触れた。
 
しかし実際はこの準則が適用され五世の王が臣籍降下することはなかった。該当皇族(四世)が家督を継ぐ前に終戦を迎え、準則を適用する前に、なんと十一宮家すべて臣籍降下することになったからである。
 
少し脱線するが、この準則とは関係なく、従来から皇族の次男三男は、左のごとく臣籍降下していたのである。
 
大正九年 山階宮芳麿王→山階侯爵
 十二年 久邇宮邦久王→久邇侯爵
 十五年 伏見宮博信王→華頂侯爵
昭和三年 山階宮藤麿王→筑波侯爵
   三年 山階宮萩麿王→鹿島伯爵
   四年 山階宮茂麿王→葛城伯爵
  六年 久邇宮邦英王→東伏見伯爵
 十一年 朝香宮正彦王→音羽侯爵
 十一年 伏見宮博英王→伏見伯爵
十五年 東久邇宮彰常王→粟田侯爵
 十七年 久邇宮家彦王→宇治伯爵
 十八年 久邇宮徳彦王→龍田伯爵
 
これを見て分かるとおり、降下しても伯爵までであり、子爵男爵までは降りてはいない。しかも、降下時に百万円という巨額な一時金が支給された。皇女が結婚する際の一時金は、相手が皇族であれば八万円、華族であれば四万五〇〇〇円である。百万円がどれほど巨額であったか。想像していただきたいそして。
このような経緯があって、戦後を迎えるのである。
 
さらに脱線するが臣籍降下というと昭和二二年の一一宮家の降下のみが有名であるが、前述の通り、それまでにも皇族は何人も、臣籍降下してきたのであり、お家断絶(絶家)した宮家もあった。
 
明治初年から昭和二二年まで数えて一八宮家が存在したが、有栖川宮・華頂宮・桂宮・小松宮の各家は後嗣無く絶家となった。有栖川宮御殿跡地は、港区白金の有栖川記念公園になっている。華頂宮御殿跡は港区三田四丁目の亀塚公園に僅かに痕跡をとどめている。小松宮御殿跡地は駿河台の山の上ホテルと明治大学の一部になっている。
 
さて本題の昭和二二年に降下した宮家は次の通りである。
 
朝香宮 六名
賀陽宮 八名
閑院宮 二名
北白川宮 四名
久邇宮 一〇名
竹田宮 六名
梨本宮 二名
東久邇宮 七名
東伏見宮 一名
伏見宮 四名
山階宮 一名
 
合計五一名であり、すべて伏見宮系統、つまり伏見宮邦家親王の子孫である。繰り返すがこの時点で一九世紀初頭にお生まれになった仁孝天皇の子孫であり今上天皇に至る皇室と、仁孝天皇とほぼ同い歳の邦家親王の子孫の皇族と、二つの系統があった。この第二天皇家とも呼ばれた伏見宮系統がすべて臣籍降下したのである。
 
この六ヶ月前に華族制度は廃止されており、全員華族になりようもなく、いきなり平民になったのである。
 
さてこの昭和二二年の時点でこれだけの宮家がなくなり、皇位継承に不安が生じなかったのだろうか。
 
この時点で残った男子皇族を見てみよう。
 
秩父宮雍仁親王殿下 御年 四十五歳 皇子皇女なし
高松宮宣仁親王殿下 四十三歳 皇子皇女なし
三笠宮崇仁親王殿下 三十二歳
皇太子明仁親王殿下 十四歳
正仁親王殿下(のちの常陸宮) 十二歳
三笠宮家の寛仁親王殿下 一歳
 
三笠宮崇仁親王殿下は、この後も皇子お二人を得ている。つまりこの時点では皇位継承にまず不安はなかったのである。
さらに昭和四〇年、文仁親王殿下御生誕時の男子皇族の年齢を見てみると
 
浩宮徳仁親王殿下 御年五歳
礼宮文仁親王殿下 零歳
寛仁親王殿下 十九歳
宣仁親王殿下(のちの桂宮) 十七歳
憲仁親王殿下(のちの高円宮) 十一歳 
 
皇位継承に些かの不安もなかったのである。
 
昭和四〇年代は高度成長のまっただ中である。経済史上、いや人類史上希に見る良い時代だった。余談だがこの時代を忘れられず、為政者に当時と同じくらいの豊かさを求めるのは、無理というものだ。
 
皇室におかれても、この四〇年代は黄金時代だったのではないだろうか。
 
皇位継承に些かの不安もない。天皇陛下も皇太子殿下も理想的なご存在であり、ほぼ全国民の憧れの的であった。皇族の数も多過ぎず、財政を圧迫することはなかった。しかも皇族のスキャンダルもなかった。寛仁親王の皇籍離脱発言があった程度で、これも戦前の皇族の奔放不羈のお振る舞いに比すれば、可愛いものである。昭和四〇年代は大内山も下界も、まさに天下太平鼓腹撃壌の世だったのである。(続く)