contribution寄稿・コラム

「皇族がまさかのクー・デター?」 村田春樹

前号では以下の皇室典範準則の制定まで語った。
皇玄孫の子孫たる王、明治四十年二月十一日勅定の皇室典範増補第一条(中略)の規定に依り情願を為さざるときは、長子孫の系統四世以内を除くの外、勅旨に依り家名を賜ひ華族に列す。
 
大正九年三月十七日
つまり増え過ぎつつある皇族の数に歯止めをかける為に、長子孫を含む五世以降の皇族は強制的に臣籍に降下することになったのである。
枢密院を通過したこの準則は、皇族会議に提出されるが一波乱あった。
 
この準則は前述のように五世以下の皇族は全て臣籍降下するものとし、皇族にとっては実に厳しいものであった。賛成するはずもない。
しかし枢密院で可決されたのに、皇族会議でひっくり返すわけにもいかない。困り果てた波多野敬直宮内大臣は一計を案じ、採決を取らないことにして、皇族会議を招集した。
 
時に大正九年五月一五日、午前十時十五分 宮中東溜間
この皇族会議に於いて、原案への異論が百出したのである。しかし採決を取らないことになっていたので、原案はこの皇族会議を通過した。出席していた総理大臣原敬は日記に
「是にて甚だ面倒なりし皇族降下令準則決定せられたり。」
と苦々しく書いている。
 
ところがこの直後に波乱があったのである。会議のあと、天皇の賜餐に、会議に参加した皇族一二名中なんと九名が欠席したのである。まさにボイコットである。
以下皇族会議の出席者である。△印が賜餐に欠席した皇族である。
 
皇太子裕仁親王
△伏見宮貞愛親王
△閑院宮戴仁親王
△東伏見宮依仁親王
△伏見宮博恭王
△伏見宮博義王
山階宮武彦王
△賀陽宮恒憲王
△久邇宮邦彦王
△梨本宮守正王
朝香宮鳩彦王
△北白川宮成久王
枢密院議長山縣有朋
内大臣松方正義
総理大臣原敬
宮内大臣波多野敬直
大審院長横田国臣
 
まさにク・デタともいうべき大椿事に山縣有朋は激怒して、
「皇族会議の結果は必ずしも聖意に合ふものに非ざるべしと思惟す。これ臣等が盡力の足らざる所にして、恐懼に堪へず」
と待罪書なるものを元老松方正義、西園寺公望と連名で天皇に提出した。今でいう「進退伺」のようなものだろう。もちろん天皇はうけとらなかったので事なき得たが。
 
当時大正天皇病弱に乗じて、天皇を侮るような言動が、皇族の間にあったと聞いている。東久邇宮稔彦親王などは、子供の頃大正天皇をいじめたことなど、得々と語るなど、下克上の振る舞いが散見されたという。昭和に入り、軍隊に下克上の風潮が瀰漫したが、私はそういった風潮の原点に、宮中での大正天皇軽視の雰囲気が、あったのではないかと推察する。この賜餐ボイコットも、もし明治天皇だったらあり得ただろうか。皇太子裕仁親王は時に一九歳、空の皿や器がずらりと並ぶ異様な光景に衝撃を受けたのではないだろうか。
 
史書を繙くと、昭和天皇は戦前、皇族にあまり良い印象を持っていなかったのではないか、と感じることがままある。この賜餐ボイコットは、その大きな原因の一つに、なったのではないだろうか。
 

続く