columnコラム

【読者投稿】秀吉の九州征伐と島津義弘 元予備校教師・翻訳家 三沢廣(みさわひろし)

秀吉の九州征伐と島津義弘

 
 島津氏は源頼朝の子孫だという説があります。
頼朝には男子が四人、1千鶴(男/伊東祐親の外孫/平家方の祐親に殺害されて早世)、2頼家、3貞暁(出家/じょうぎょう/頼朝の子の中では一番長寿の46歳)、4実朝。女子は大姫と乙姫(三幡)。この六人の存在は間違いないようです。(千鶴と貞暁は他の四人とは異母)
 
 ところが、伝説では、もう一人男子がいたのです。名は忠久。母は比企能員の妹・丹後局(たんごのつぼね)。北条政子の嫉妬を恐れて、摂津国まで逃げて、住吉大社で出産しました。畠山重忠に保護されて元服し、後に幕府から薩摩守護職に任ぜられ、母を伴って、薩摩に下向して、土着しました。
頼朝の子供だというのは不確実ですが、丹後局の子供であることは学者の中にも認める人が多いとのこと。(もっとも非実在説の方が強いのですが)
 
 それから十代ほど下って、分家に生れた忠良(ただよし)が日新斎(じっしんさい)と呼ばれる傑物になりました。その子が貴久(たかひさ)で本家を継ぎました。貴久(1514-1571)の子が、義久(1533-1611)、義弘(1535-1619/信長より一歳下、秀吉より二歳上)、歳久(1537-1592)、家久(家久だけが異母1547-1587)の四人です。この四人が戦国から江戸初期にかけて活躍します。
 
 四人兄弟の中で、家督を継いだのは義久でしたが、文武に優れた義弘が島津家の勢力発展に寄与し、兄に取って代わるようになりました(仲は悪くなかったようですが)。その後を継いだのは、義弘の息子・忠恆でした。1604年に本領を安堵された忠恆は、1606には家康の偏諱を受けて、家久と名乗りました。結果的に叔父と同じ名になりましたが、すでに叔父の家久は死んでいました。混同を避けるために、史書では一貫して忠恆と呼ぶことが多いようです。
現在の島津家は義弘・忠恆の子孫ですが、義久の子孫がないがしろにされたわけではなく、義久には男子がいなかっただけのことです。
 
 また、関ケ原の名高い「島津奔る(敵中突破)」(小説・池宮彰一郎作)は義弘が敵陣を突破して鹿児島に逃げ帰る所を書いたものですが、その際に戦死した甥の豊久は義弘の異母弟だった家久の息子。父が死んだ後、義弘が実の息子のようにかわいがったとのこと。
今回は、義弘を中心にして、お話を進めて行きましょう。
 
 日新斎は傑物ではありましたが、本家ではなく、分家の伊作家の当主。その息子の貴久が本家の養子に入って、薩摩、大隅、日向の守護になりました。
四兄弟の長男・義久が当主の座を父貴久から譲られたのは1566年のことでした。13代将軍足利義輝が暗殺された翌年のことです。その2年後に日新斎が77歳で世を去りました。
 
 1543年、種子島(角倉岬《かどくらみさき》)に鉄砲が伝来しました。ポルトガル船で百人以上が乗っていましたが、実はポルトガル人は二人だけで、ほとんどが中国人だったようです。当時十六歳だった種子島時堯(ときたか)は一億円相当の金を払って、二挺を手に入れ、数年後には国産の鉄砲が出来上がりました。なお、時堯の娘が義久の妻です。
 
 加治木の肝付氏と戦ったときのことでした(1549)。貴久は実戦で初めて鉄砲を使いました。驚いたことに、こちらが鉄砲を撃つと向こうも鉄砲を撃ち返してきました。鉄砲はたちまちのうちに、薩摩、大隅、日向にまで伝わっていたのです。
この1549年には、フランシスコ・ザビエルが鹿児島にやってきました。上陸地点は薩摩半島南西部の坊津(ぼうのつ)。このときはまだ、貴久は鹿児島を掌握しておらず、伊集院(鹿児島北方)の一宇治城にいました。「いじゅういん」と「いちうじ」は派生語(同語源)ではないかと思われます。ここで、貴久および四兄弟はザビエルと会見し、滞在を許しました。薩摩では布教に成功せず、やがて、豊後へ去って、大友宗麟の援助を受けました。
 
 その翌年、貴久一家は鹿児島の身内城(内城)に入りました。
現在の鹿児島城(鶴丸城)は忠恆(家久)が、関ケ原の後に、家康の侵攻に備えて作ったものです。1604年の完成です。
 
 1554年、末弟家久を除く兄3人が初陣。義弘は20歳でした。島津に従うようになっていた肝付氏が守る加治木城に、反守護派が攻め込んできたのです。
義弘は初陣で手柄を立て、周囲から認められるようになりました。
さらに、1557年には、重傷を負いましたが、いよいよ武名を挙げて行くのでした。
そして、一門の島津忠親に望まれて養子になり、日向の飫肥(おび)城にいました。宮崎県南部の太平洋岸です。貿易港油津に近いので重要な地域になっていました。
この時期、島津が戦っていた相手は、伊東氏と肝付氏です。

 伊東氏の祖は、曽我兄弟に討たれた工藤祐経です。日向国の地頭でしたが、息子の祐時のときに伊東を名乗りました。さらにその後、日向に土着するようになっていました。
一族から出た二人の有名人が伊東マンショ(伊東義祐の外孫/日向生れ/1582出発/満所/祐益)と伊東祐亮(すけゆき/日清戦争の聯合艦隊司令長官)です。

 肝付氏は大隅の戦国大名でした。南北朝の頃から、島津に服属したり敵対したりしていましたが、この時期には、伊東氏と結んで島津に対抗する様子を見せていました。忠良の娘(貴久の姉/御南《おみなみ》)が当主肝付兼続の妻になっていました。
ところが、1561年(桶狭間の翌年)、酒席での喧嘩から、戦争に発展し、忠将(ただまさ/貴久の弟)が討ち死にしました。そこで、義弘は飫肥城を去って、鹿児島へ援助に駆けつけました。
その隙に伊東義祐(よしすけ)が飫肥に攻め込んだのです。
伊東氏の本拠地は飫肥より北の太平洋岸の佐土原ですが、飫肥の西にまで勢力を張っていました。
肝付氏は大隅半島南部が本拠地です。その伊東氏と肝付氏が提携して島津に逆らいました。
 
 1566年のうちに島津は肝付兼続を討ち取り(自殺とも言われる)、1574年には肝付氏は島津に服従します。兼続は戦争前に、妻を離縁しようとしましたが、御南は応じなかったとのこと。夫のために命を惜しまない烈女だったのです。
 
 1572年、義弘38歳のときに、木崎ケ原(鹿児島中央最北部)の決戦で、伊東氏に大勝しました。
伊東義祐は負けた後も佐土原で苛斂誅求(かれんちゅうきゅう/税金を厳しく取り立てること)をしていました。農民が蹶起し、地侍が加担し、そこを島津が攻撃しましたので、ついに豊後の大友氏を頼って逃げて行きました。大友氏は伊東氏と姻戚関係があったのです。まだ4歳くらいだった伊東マンショも、このとき付いて行きました。その後、大友氏が島津を攻めるのは、伊東氏の所領回復が口実でした。
ただし、義祐はその後、乞食のようになって諸国を放浪し、野垂れ死にをしたとのこと。
それでも、義祐の孫は秀吉の島津征伐のあと、飫肥藩主となり、幕末まで残りました。
 
 さて、フランシスコ・ザビエルが鹿児島を去ったのは、貴久がキリスト教に嫌悪感を示し始めたからだったと言われます。北へ去ったザビエルは、まず平戸を訪れ、それから山口の大内義隆を訪ねましたが、ここでも嫌われてしまったらしく、ついに京都を目指します。
京都へ着いたのは1551年のことでしたが、後奈良天皇にも足利義輝にも会ってもらえず、また山口に戻り、年末にはゴアへ帰りました。
ザビエルがゴアへ帰るとき、ベルナルドという洗礼名の日本人を伴って行きました。この人は日本人最初のヨーロッパ留学生になりました。ローマ教皇にも拝謁し、ポルトガルの大学で学びました。1557年には死んでしまいましたが、その生き方がヨーロッパ人に相当な感銘を与えたとのこと。1999年に鹿児島にザビエル公園ができましたが、その中のザビエル像とならんで、ベルナルド像が建てられています。
 
 豊後の大友宗麟(義鎮《よししげ》)は、1551年にザビエルの訪問を受け、布教の保護をしましたが、なんと1576年になってから、突然受洗しました。神官の娘であった妻を離縁し、洗礼を受けた侍女と再婚しました。そこへ、伊東義祐からの依頼があったのです。
宗麟は義祐を助けるという名目で、日向出兵を計画します。しかも、日向にキリシタン王国を作ろうとしたのです。
宗麟と嫡男の義統(よしむね)は、義祐の嫡男・義兵(よしたか)を道案内として三万ないし四万を率いて日向に出兵しました。一時は延岡市のあたりを制圧し、無鹿(むしか)というキリシタン王国を建設したのです。「ムシカ」とはポルトガル語で音楽のこと。英語のミュージックと同語源です。
 
 1578年11月、耳川の戦い(宮崎県北部太平洋岸)は島津の大勝に終わり、大友軍の戦死者は二万人にのぼったとのこと。
実は、この戦いの前までは、大友氏の方が島津氏よりも強いと思われていました。佐賀の竜造寺隆信は大友に仕えているような様子でしたが、戦いの後、大友に背き、九州は、島津、大友、竜造寺の三竦み状態になりました。
 
 竜造寺隆信は島津と結んで大友を討とうと考えて同盟を求めましたが、義久は、織田信長の勧告を受け入れて、大友と和睦しました。信長は毛利攻めのために、大友の力を借りたかったのです。その結果、島津は竜造寺を敵に回すことになりました。竜造寺は守護大名少弐氏の被官(家来)でしたが、中国の大内氏と提携し、謀叛をして少弐氏を滅亡させ、実力を蓄えながら、大友に従っていたのです。

 隆信は名目上隠居して、息子の政家に家督を譲りましたが、実権は手放しません。暴君だったために、家臣も同盟の大名も竜造寺を見放すようになります。服従していた有馬晴信が離反して、島津についたために、竜造寺と島津との間に戦争が始まりましたが、島原半島の沖田畷の戦い(1584)で隆信は敗死し、その子・政家は島津に降伏し、やがて秀吉に鍾愛された重臣の鍋島直茂に乗っ取られてしまいます。
島津は薩摩、大隅、日向を完全に掌握するに至りました。
竜造寺との戦争が進行中に本能寺の変が起りました(1582)。
 
 竜造寺を降した島津は、豊後の大友を制圧する戦いを計画します。
ところがそこに、関白となった秀吉から、「惣無事令」が届きました。停戦命令です。
 
 1585年孟冬十月のことです。「国郡境目相論、互存分之義被聞召届、追而被仰出候、先敵味方共双方可相止弓箭旨、叡慮候」というものでした。訳しますと、「領土争いを廻る喧嘩は、双方の言い分を十分に聞いた後で、処分を沙汰するので、まずは弓矢を置いて、戦争を止めることにせよ。これは天皇の御命令である」(天皇を持ち出すのが秀吉の常でした)。
 
 大友宗麟の陳情がきっかけだったということです。
義久はためらったようですが、義弘は断乎として拒絶しました。
しかも、出自の低い秀吉に手紙を出すのもいやだということで、添え状を書いた細川幽斎宛てに返事するという始末ですから、秀吉が怒ったのももっともでした。
もっとも、秀吉は、前々から島津を服従させる計画を練っていました。それが具体化したのは、1586年に家康が上洛して秀吉に挨拶し、後顧の憂いがなくなったからでした。今や、秀吉に盾突くのは、北条氏(小田原)と伊達氏の外は、島津だけになっていました。
 
 伊達はそれほどの問題ではなく、北条は当主の氏直が徳川家康の女婿なので後回し(平和的に服従させたいと思っていた)。そういうことで、九州征伐は必然の日程になっていたのです。
さらに、秀吉は、すでに朝鮮出兵の計画を持っており、そのためにも九州を平定しなければならないと考えていたとのことです。
 
 それに対して、島津は、なんと豊後(大分南部)ではなく筑紫(福岡)に出兵しました。大友氏が筑紫にも拠点を持っていたのです。義久、義弘、歳久が大軍を率いて出兵しました。
敵の城は、岩屋城、宝満城、立花城の3つです。大友氏の家臣、高橋紹運(しょううん)がこの地を守っていました。紹運が岩屋城、次男が宝満城、そして、立花城に立てこもるのが、紹運の嫡男で、立花家に養子に入っていた立花宗茂でした。
岩屋城と宝満城は陥れましたが、立花城は宗茂が頑強に抵抗しました。やがて、秀吉の軍隊がやってくるので(毛利援軍が豊前上陸の報)、島津は撤兵しました。1586年仲秋のことでした。宗茂は秀吉から、筑後柳川十三万二千石の大名に取り立てられました。
この宗茂は関ケ原で三成に加担して、改易になりましたが、大坂の陣で家康のために働いたので、旧領柳川を回復することができました。
 
 1586年、義弘は52歳になっていましたが、いったん薩摩へ帰ってから、秀吉に盾ついて豊後に侵入することに決めました。
いったんは豊前豊後を除いた北九州をほとんど島津が制圧するような情勢になっていましたが、立花宗茂を討てなかったことが大きな失敗になりました。また、竜造寺氏は、隆信討死の後、息子の政家が島津に服従したものの、関白の軍が攻めてくると聞いて、背きました。
 
 1586年のうちに、立花城には関白の軍が入っていました。黒田孝高(官兵衛)と安国寺恵瓊、竜造寺政家が入城したのです。
島津は、肥後口と日向口から豊後に攻め込む計画を立て、義弘は肥後口の総大将になりました。
十月末、義弘は肥後と豊後の国境に達しました。そのまま豊後に侵入し、国境に近い土地は、岡城を除いて制圧しました。
 
 日向口から入ったのは、弟の家久。1587年初春、四国に向いた戸次(へつぎ)川で決戦が行われました。敵は、長曽我部元親、信親親子、大友義統(宗麟の息)などでしたが、家久が大勝しました。
この頃、義久は八代、義弘と歳久は豊後朽網(くちあみ/大分県南西部)、末弟家久は豊後府内(大分市)にいました。
 
 秀吉が大坂を出たのは、1587年の晩春(季春三月)でした。この年、義弘は53歳になっていました。
秀吉の軍勢は総勢二十五万人(or三十万)。第一陣は羽柴秀長(秀吉の異母弟)で、日向路(東回り)を南下しました。西回り(肥後路)は秀吉が自ら指揮を取りました。
四月六日、耳川に近い高城で、決戦が行われました。義久、義弘、家久が参加しました。(歳久は肥後口) 島津は善戦しましたが、結局敗れ、義弘は本拠地にしていた飯野城へ戻りました。あとは降伏へ向かうばかりです。
秀吉の率いる西回りの軍勢は、行く先々で島津同盟軍が降伏するので、ほとんど戦わずに薩摩に入りました。まず宿泊したのは泰平寺(川内市)。五月三日のことでした。
 
 義久はここに出頭しました。頭を剃り、名を「龍伯」と改めていました。着衣も墨染でした。秀吉は龍伯を許しましたが、安堵したのは薩摩一国だけでした。
義弘は飯野城の近くで、まだ秀吉と戦うつもりでいました。数千人で三十万を相手にしようというのです。歳久も義弘に同心していました。
義久からは停戦命令がきました。秀長も説得の使者を遣わします。

 5月19日になって、義弘は秀長の陣所へ出頭しました。嫡男の久保(ひさやす/義久の女婿)を人質として差し出しました。そして、秀吉は義弘に大隅一国を、また久保に日向の一部を与えました。
この久保は文禄の役のときに、巨済島で病死しました。妻は義久の娘・龜壽(亀寿)ですが、子供はいませんでした。その結果、弟の忠恆(家久)の子孫が後を継ぐことになります。
亀寿は種子島時堯の外孫です。久保が死んだ後、忠恆(家久)の妻になります。久保とは仲がよかったが、忠恆とはよくなかったと言われます。どちらの子供も産んでいません。
叔父の家久(一足先に降伏)も日向の別の一部を旧領安堵されました。歳久は何ももらえませんでした。
 
 秀吉は鹿児島へは入らず(現代風に言えば、鹿児島県へは入ったが、鹿児島市へは入らなかったという)、泰平寺から移動する途中で、テロに遭いかけました。駕籠に矢が刺さったのです。犯人は歳久の家臣であることは明らかだったのですが、このときは処罰はありませんでした。数年後に自殺に追い込みますが。
六月、四人兄弟の末の家久(初代藩主とは別人)が急死しました。毒殺説もありますが、史家は一般に病死だと思っているようです。後を継いだのは豊久でした。義弘はこの甥を実の子のようにかわいがります。
 
 こうやって、秀吉の九州征伐は終わったのでした。
さらに、秀吉は、薩隅日(薩摩大隅日向)の中に、島津の若干の家臣に直接に所領を与えたりしました。これが、後に紛争を引き起こす種になります。
 
 そんなことですから、秀吉(or三成)は、故意に島津家にとって面倒なことになりそうな火種を撒いたのだと言っても言い過ぎではないでしょう。
特に問題は、義久が隠居(or出家)したからという理由で、義弘に「島津家の当主」になれという命令を下したのです。
仲のよい兄弟ではありましたので、義弘が心密かにシメタと思ったかどうかは分かりません。ただ、義久の跡継ぎは、義弘の息子と決まっていましたので、あまり実益があったとも思われません。
二人は相談の上、内政は義久、外交は義弘が担当するという役割分担を決めました。この時期の薩摩を「両殿体制」と呼ぶことがあります。
義久は鹿児島に住みましたが、義弘は飯野城(日向)の南方の栗野城(大隅)に居住しました。
 
 1590年、小田原の陣が起ります。九州を平定した秀吉の最後の課題は、北条氏と伊達氏です。そして、この小田原の陣の間に、伊達政宗が臣従を申し出て来ましたので、北条と伊達を片付けたので、秀吉は完全に天下を掌握し、その後、朝鮮へ出兵するという段取りになります。
1591年に、秀長が病死し、その翌月には千利休が切腹を命ぜられます。秀長が生きていたらこんなこと(千利休切腹)はさせなかったろうと言われています。
1589年仲秋に、淀殿が鶴松を生んでいました。秀吉は統一した天下を鶴松に遺してやろうとして、小田原攻めを考えたとのこと。鶴松は1591年に三歳で死んでしまったので、その年のうちに、甥の秀次を関白にしました。(秀長、利休、鶴松、北条氏直が同年に死亡/氏直は北条五代目で家康の女婿。助命されたが間もなく病死)
息子を失った失意の中から、朝鮮出兵を思いついたという説もありますが、大陸進出はもともとは信長の考えたことだという学者も少なくありません。でも、秀次を関白にした翌年に、征明軍を組織していますから、何かつながりがあるかも知れません。
 
 島津から小田原の陣に参加したのは、久保(1573生/ひさやす)でした。1590年には数え18歳です。これが久保の初陣となりました。久保は自ら望んで増水した富士川の先陣を引き受け、敵前の急流を馬で駆け渡ったとのこと。
この報を聞いて、義久(嶽父)と義弘(実父)は大喜びをしました。面白いのは、二人が大喜びしたのは京都でのことだったということです。小田原の陣に備えて、三人とも京都の秀吉の下に参集し、そこから久保が出陣して行ったのです。
小田原の陣は包囲戦に終始し、それほどの戦闘はないままに、北条氏が降伏しました。義弘は、島津に対する寛大な処置と、北条に対する厳しい処置を比較して、感謝してしまったようです。この後、義弘は秀吉に従順になり、それが義久の不興を買ったとの説もあります。
 
 1592年正月、「唐武陣(からぶじん)」が布告されました。肥前名護屋が拠点となり、秀吉もここで指揮を取りました。薩摩藩は義弘と久保が出陣することになりましたが、名護屋まで来ても、薩摩からの軍勢の到着が遅延します。島津家では、武士を鹿児島に集中させずに、外城(とじょう)と呼ばれる領内各地に配置しており、そのために、徴集に手間取ったのです。
 
 朝鮮への第一陣は、小西行長、宗義智(そうよしとし)などに率いられて、三月中旬に十六万人が渡海しました。しかし、義弘、久保の薩摩勢は五月になってやっと渡海するという遅れを取りました。
李氏朝鮮は明に救援を求め、明も戦火が遼東半島に及ぶことを恐れて出兵しました。日本と中国の戦争になったのです。もっとも、秀吉は最初から明を征服することが目的でした。
この時期、平戸まで来ていた島津家の家臣(梅北国兼)が、謀叛を起こして討ち取られるという事件が起こりました。征伐される前に、梅北は、義久の命令で太閤に反抗するのだと開き直ったのです。
名護屋(現在の唐津市)にいた義久は秀吉に弁明し、それは認められましたが、弟の歳久に疑いをかけ、その命令で、義久は歳久を攻めて自害させました(1592孟秋)。歳久は秀吉から虐待されたので、恨みを抱いていたようです。その子孫はどうなったかと言えば、外孫が日置島津家を継いで家を残しました。
 
 文禄の役では、薩摩はそれほどの戦いは経験しませんでした。1593孟夏(四月)、講和交渉が始まり、日本軍は漢城(ソウル)から撤退しましたが、講和の条件を有利にするために、南海岸に近い晉城を陥落させ、さらにその一帯にたくさんの「倭城」を築きました。
義弘は巨済島に城を築き、暫くの期間をここで過ごします。久保は虎退治までして、意気軒高でしたが、突然病気にかかって死んでしまいました。代わって、弟の忠恆(後の家久)が朝鮮へ渡ってきました。
 
 1595年仲夏五月に義弘は帰国し、伏見で秀吉に拝謁しました。ここで、秀吉は義弘に朱印状を与えて、「島津の当主は義弘」と正式に決めたのです。さらに、鹿児島は義弘の所領、義久には大隅と日向の一部を与えました。義久は大隅に居を移します。
大隅国の国府は国分(こくぶ)。お茶で名高い国分ですが、その名は国府の訛りだということです。義久は国分の富隈(とみのくま)城に移りました。因みに薩摩国の国府はよく分かっていないのですが、現在の川内市にあったとのことです。
 
 義弘は兄に遠慮して、鹿児島には入らず、帖佐(鹿児島北方/加治木の近く)に留まります。代わりに忠恆を鹿児島に送りました。すでに久保の妻だった亀寿が忠恆の妻になり、義久が嶽父になっているのですから、問題はありませんでした。
義弘は朝鮮から帰った頃、「維新斎」と名乗りました。そこで、「島津維新」「維新公」などと呼ばれることがあります。
 
 1593年に豊臣秀頼が生れ、不安を感じた秀吉は1595年に秀次を切腹させます。
1596年季夏六月、明の册封副使沈惟敬(ちんいけい)が伏見で、さらに晩秋には正使楊方享(ようほうきょう)が大坂で秀吉に謁見します。文禄の役の休戦交渉だったのですが、このときの明からの手紙が無礼だというので秀吉が怒って、慶長の役となり、再び朝鮮に出兵することになりました。
慶長の役では、島津は大活躍をします。
日本軍は着々と「倭城」を築きます。もう1597年になっていました。その中で、朝鮮側が「倭の三窟」と呼んで恐れたのが、小西行長の順天(スンチョン)城、加藤清正の蔚山(ウルサン)城、そして、島津義弘(63)の泗川(サチョン)城でした。義弘は五千人を率いていました。
 
 1598年になると、明が二十万人を率いて、「倭の三窟」を攻撃します。秋には、泗川を集中的に攻撃しました。義弘は百倍の敵を相手に奮戦し、ついに撃退します。明は星州(漢城と釜山のほぼ中間/漢城とはソウルのこと)まで逃げました。このときの明軍の死者は四万近くに及んだということです。以後、明側は、島津を「鬼石曼子(グエシーマンズ)」と呼んで恐れました。
朝鮮最大の英雄、李舜臣は仲冬十一月に露梁海戦(泗川郊外/韓国南端巨済島の近く)で戦死しましたが、この戦いに義弘は立花宗茂や小西行長と一緒に参戦しました。李舜臣は島津軍の砲撃で死んだと伝えられます。
同じ十一月に義弘は帰国しました。すでに秀吉は八月に死んでいましたが、喪を隠して戦争を続けていたのです。秀吉の死によって戦争は終わりました。義弘が正式に三成からそのことを告げられたのは帰国してから。場所は、筑前名島(福岡市)の島津陣屋でのことでした。
 
 1599年晩春、島津家の内輪もめが起りました。「庄内の乱」です。
忠恆が、伏見の島津屋敷で、伊集院忠棟(ただむね)という家臣を手打ちにしたのです。この人は、秀吉から日向に八万石を与えられていましたので、島津家の目の上のたんこぶになっていたのです。
このとき、石田三成は、忠棟と親しかったので、激怒しました。忠恆は謹慎し、義久と義弘は三成に詫び状を書きました。
忠棟の息子、忠真(ただざね/義弘の女婿)が反乱を起こしました。結局忠真は降伏し、所領を削られただけで許されました。
このとき、義久と義弘を援助してくれたのが家康でした。九州の諸大名に、島津に加勢するように指示を出してくれたのです。
 
 これが、義弘が関ケ原で家康に加担しようとした背景であったようです。
しかし、現実には義弘は三成につくことになったのです。
 
 関ケ原の戦いの前哨戦は、伏見城攻防戦から始まりました。家康の家臣・鳥居元忠は、伏見城を死守するために籠城しました。義弘は家康から元忠の援助を依頼され、伏見城に駆けつけました。ところが、元忠は家康が義弘に依頼したことを聞かされておらず、また、義弘が三成の指示を受けているのではないかと疑って、援助を拒絶しました。鉄砲を撃って追い返したとのこと。
この手違いから島津は西軍に属することになりました。
 
 この頃、薩摩は、忠恆を含めて「三人殿様」体制になって、混乱していました。そこで、戦争になるというのに意見がまとまりません。関ケ原の義弘の軍勢が千三百に過ぎなかったのはそのせいでした。義弘は一万人を送ってもらうことを期待していたのですが。
義弘は西軍に属して、伏見城の元忠を攻めました。義弘の手兵は二百。これが少なかったことから、三成は義弘を粗末に扱うようになったとのこと。元忠側は城兵八百が玉砕しました。ただし、西軍は三千の死傷者を出してしまいました。
 
 こうやって、島津は関ケ原の戦いに中途半端な参戦をすることになったのです。
関ケ原の敵中突破退却では、かわいがっていた甥の豊久(31)が戦死しました。
豊久は子供は残しませんでした。豊久の弟が他家に養子に入ったので、その子孫はほそぼそと続いたということです。
こんな話が残っています。
 
 島津豊久、ことのほかの美少年なりし。征韓の役に臨み、家中の勇士を一人一人前へ呼んで思ひざしせり。それゆゑ猛士みなおのれ一人を主君はことに愛せらると思ひ、みなみな一気に猛戦せしといふことなりし。
 
 (訳)豊久は格別の美少年でしたが、朝鮮出兵のときには、家来たちを一人一人呼んで、手ずから酌をしてやりました。(「思いざし」は「おまえだけに酌をしてやるんだからな」と恩に着せること。それでいて、みんなにしてやったのです) そこで武士たちは、みんな、「この美少年の殿様が俺だけに酌をして下さった」と感激して、戦場では命を惜しまずに戦うのでした。
 
 
元予備校教師・翻訳家
三沢廣(みさわひろし)
 
経歴:
予備校教師(十校以上)
教科「英語・国語」