gosei「天皇御製に学ぶ」

天皇御製に学ぶ 第十九回 四宮正貴

天皇御製に学ぶ 第十九回 四宮正貴

 
櫻町天皇御製
 
あし原の 國はうごかじ いくとせも あまてる神の 守るめぐみに
 
君も臣も 身をあはせたる 我國の みちに神代の 春や立つらむ
 
「あし原の」の御製は、御年十五歳、皇太子の頃に「神祇に寄するの祝」と題され詠ませられた。皇祖天照大神の御守護により、皇国日本は永遠に隆昌するといふ固きご信念を、優雅なるしらべで歌ひあげられてゐると拝する。
「君も臣も」の御製は、御年二十四歳の時「立春」と題され詠ませられた。わが日の本は、神代以来、君と臣とが心を合はせて正しき道を踏み行って来たといふ事実を、立春を祝ふといふめでたい御心と共に歌はせられゐると拝する。
 
第一一五代・櫻町天皇は、中御門天皇の第一皇子。御名を昭仁(てるひと)と申し上げる。享保五年一月一日【一七二〇年二月八日】に生誕あそばされ、寛延三年四月二三日【一七五〇年五月二八日】)に崩御された。ご在位は、享保二十年三月二一日【一七三五年四月一三日】―延享四年五月二日【一七四七年六月九日】)であった。御年十六歳で践祚され、十二年間在位され、桃園天皇に譲位され、上皇となられた。御年三十一歳で崩御された。
 
櫻町天皇は、朝儀の衰退を深く憂へられ、元文二年(一七三七)十一月十九日、「大嘗祭」を復興された。さらに、御年二十一歳の元文五年(一七四〇)、二百八十年間にわたって中絶されてゐた「新嘗祭」を復興された。
これには、德川吉宗が第八代征夷大将軍の任にあった徳川幕府も協力的であったと傳へられる。徳川吉宗は、朝廷を尊崇する念が篤かった。吉宗は、櫻町天皇が未だ皇太子であらせられた時に米千俵を献上し、また八十宮(やそのみや・靈元天皇皇女吉子内親王。七代将軍徳川家継に降嫁するご予定であったが、家継の死去により降嫁されなかった)に金二百両を毎年増進することを定め、譲位された中御門上皇に対し奉り御料として一万石献上した。
「君も臣も 身をあはせたる 我國の みちに神代の 春や立つらむ」といふ御製は、さうした徳川吉宗の尊皇精神を嘉せられてゐるのではあるまいか。
 
櫻町天皇はさらに、
 
「新嘗の わさ田のはつ穂 もろ人に とよのあかりの 今日たまふなり」
 
「天てらす 神ぞ知るらむ 末ながき 代々のひつぎを 祈る心は」
 
「神代より 天つひつぎの いやつぎに さかゆる國は 動きなくして」
 
といふ御製をのこされてゐる。
天津日嗣日本天皇としての神聖なる御自覚そして國の平安を祈られる大御心が歌はれてゐると拝する。
 
京都の仁和寺は、光孝天皇が仁和二年(八八六)に建立を発願し、次代の宇多天皇が仁和四年(八八八)に完成させた真言密教の寺院である。歴代天皇の厚い帰依を受け、皇族が門跡(皇族の住職)を務められた。 
その仁和寺には、歴代天皇の数多くの宸翰が伝へられてゐる。櫻町天皇が、寛保三年四月十一日、御年二十四歳の時、中御門天皇七回忌御供養のために書写された『櫻町天皇宸翰般若心経』も、仁和寺に傳へられてゐる。その宸翰の末尾には「大日本國天子昭仁敬書」と記されてゐる。
櫻町天皇が、大日本国の上御一人・天子としての御自覚を強く持ってをられたことを証しする。
櫻町天皇は、御幼少の頃から厩戸皇子(聖徳太子)の再誕と讃へられるほどの英明な天皇であらせられたと承る。