2017年10月22日(日曜日)
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世界史から紐解く日本「16世紀のフランスとドイツに学ぶ個人の信仰の自由〜ナントの王令とアウクスブルクの宗教和議の違いとは?」佐波優子

 宗教に寛容か不寛容か。そのどちらを選択するかで、その後の国の状況を大きく変えることがよくある。例えば16世紀のフランスとドイツでは、宗教に寛容か不寛容かの違いが両国の行く末を大幅に変えた。

 まずは宗教に不寛容だったドイツのケースから見ていこう。個人の信仰の自由を求めなかったことで戦争を引き起こしてしまったケースだ。16世紀のドイツで宗教改革が始まった。マルティン・ルターはヴィッテンベルク大学の聖堂の扉に、当時のカトリックについて疑義を書き連ねた「95か条の論題」を貼った。この張り紙は、贖宥状にお金を出せば罪が許されることなどカトリックのあり方に対しての批判が書かれたものだ。最初はラテン語で書かれていたために読めない者も多かった。しかしドイツ語に翻訳されると、カトリックへの不満を持った賛同者はドイツ中に広まることとなった。結果国内ではカトリック派とルター派に分かれ様々な混乱が起きた。混乱は争いとなり、とうとう戦争になってしまった。シュマルカルデン戦争である。戦争の後、ドイツは1555年のアウクスブルクの帝国議会で宗教和議を成立させた。この宗教和議は一見、ルター派の信仰を認めるという寛容な内容にも思える。しかしそれは違う。ルター派の信仰が認められたのは条件付き下でのものだったのだ。カトリック派を選ぶか、ルター派を選ぶかの二択は、ドイツの各地域を支配している諸侯にしか選択権がなかった。だからその地域の住人たちは自分の意思とは関係なく、土地の偉い人が選んだ宗教を信じなければならなかったのだ。これではとてもじゃないが、「ルター派の信仰も認めました」とはいえまい。個人の信仰の自由は、全く無視されたのだから。

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