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第一章 五 意外にも高校では皆勤賞

五 意外にも高校では皆勤賞





戦後の苦しい時代、でも俺は恵まれていた


高校はそのまま大森工業に進んだが、学校の教室に座っていた記憶があまりない。もちろん、学生服を着て学校に通ったことは間違いないのだが、それ以上に俺にはやりたいことが多すぎた。好きなことがたくさんありすぎたといってもいい。

高校に入学したのは一九五二(昭和二七)年のことだ。

この年は、前年に結ばれたサンフランシスコ講和条約が発効し、事実上日本の主権が回復した。GHQが解散し、占領状態から解放された年だ。日本の歴史の中では大きな転換期にあたるが、そんな変化は俺たちにはあまり感じられなかった。

今でこそ、中学生のほとんどが高校に進学するが、俺たちが入学した一九五二年というのは、まだまだ戦後色が残っていた時代だから、中学校を卒業したら働くのが当たり前。高校に進学するということは裕福な家庭の象徴だと見られていたように思う。

地元の公立中学校に通っていた同級生の中で、高校に入ったのは三分の一くらいだったと思う。まだ戦後の苦しい時代が続いている中で飯を食うのも大変だったから、どの家でも長男は中学を出ると就職して家計を助けていた。工場に働きに行ったり、大店の丁稚になったりしていたから、そいつらからみれば、高校生なんか遊び人としか思えなかったかもしれない。とにかくすぐに社会に出て働くというのが普通だった。

その意味では、俺は恵まれていた。北川の父は大野化学機械のサラリーマンとして給料をもらっていたし、長男はすでに他界、すぐ上の兄貴は他家に養子に出たが、そこからも独立していた。息子は俺一人だから生活は比較的安定していたのだろうと思う。でも、私立高校に息子を通わせるというのは楽なことじゃない。それは俺にもわかっていた。両親は、俺が高校で真面目に勉強をして、大学に入ってサラリーマンにでもなって、という夢を思い描いていたのかもしれない。

ただ、俺は全部を親に頼りきっていたわけじゃない。高校に通いながら、大野化学機械の仕事も手伝っていた。つまり今でいう「アルバイト」だが、そこでもらった金は学費の足しにしていた。

校舎も変わらず、同じところに通うのだから、気分は中学のときとあまり変わらなかった。新しい学校で、誰も知っている奴がいないのならば少しは緊張しただろうが、一年生にも知っている奴が多い。高校から新たに入学してくる者もいたから、新しい奴と知り合えるという点で楽しみではあった。

ただ、大森学園から全員が希望通りに進学できたわけではない。大森工業高校に入るときに入学試験があって、成績によって振り分けられた。なかには進学できない奴もいる。それぞれ希望の学科の試験に臨んだが、当時同級生五〇人くらいの中から高校の電気科、機械科に進学できたのは二〇人くらいだった。希望してもなかなか思い通りにはならない。俺は機械いじりが好きだったから、最初から「高校では機械科」と決めていた。とくに勉強などはしなかったが、それでも第一志望の機械科に進むことができたのは幸運だったと思う。


映画にエキストラとして出演


中学から高校にかけての頃は映画にも出ていた。「出ていた」といっても撮影所でもらえる弁当目当てに、学校を抜け出して遊びに行っていて、時々エキストラとして出演させてもらっただけなのだが......。新東宝によく行っていた記憶がある。三船敏郎さんの『抱擁』(一九五三年・東宝)や、嵐寛寿郎さんの『むっつり右門捕物帖 鬼面屋敷』(一九五五年・東宝)に出演させてもらったりした。

俺はこう見えても、意外と真面目な高校生だった。中学校のときと同じように、無遅刻、無欠席。皆勤賞なんてものももらっている。朝、先生が出欠を取るときには教室に座っていたし、一日の終わりにも必ず座っていた。

これも性格らしい。休むというのが嫌いなのだ。自分が決めたことはきっちりやる、これが俺。だから、学校に入ると決めたときから、サボって遊びに行くというのが嫌だった。勉強しているかどうかは別にして、成績が優秀だったかどうかは別にして、出席日数が足りないなんてことはなかった。

ただ、授業に出ているかどうかはちょっと答えにくい。その頃は写真に凝っていたから、いつも写真部の暗室にいた。写真部に入っていたわけではなかったが、兄の省吾に古いカメラをもらって使い方も教えてもらったら、これがおもしろかった。野球をやったり、卓球をしたり、大野化学機械で仕事をしたりと忙しい高校生活だったから、写真は授業の時間にやるしかない。でも、小さい頃に右目を怪我していたこともあり、カメラマンの道は泣く泣くあきらめた。

授業といえば、学校の校庭がでこぼこだったから、穴を掘ったりして、いつも実習と称して修理させられていたけど、授業も嫌いじゃなかった。自分で選んだ機械科だから。