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第一章 三 勝負は勝たねばならない、これが俺の一生の教訓

三 勝負は勝たねばならない、これが俺の一生の教訓



なんとも意気地のない国になってしまった


終戦後もしばらくは越生にいたが、半年くらいたって疎開先から都内に戻った。目黒に、もう家はなかった。当然、菅刈小学校の校舎もなかった。目にした光景は、俺の知っている目黒ではない。渋谷から歩いていく途中に民家はほとんどなかった。かろうじてコンクリートで造られた建物が残っているが、木造の家屋はほとんどが焼夷弾で焼かれてしまったのだろう。東京は一九四五(昭和二〇)年の三月と五月に大規模な空襲に見舞われたが、これほどとは思ってもみなかった。

大人になってから何かの本で読んだが、当時の東京大空襲を指揮していたアメリカ軍のカーチス・E・ルメイ少将は、無差別での攻撃、明らかに民間人を狙った空爆を批判した人たちに対して、回想録で次のように反論していたという。

「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか......

まさしく、俺の家のことを言われているような気がした。ボルトやネジを作っていたし、それを軍に買い取ってもらって生活していたが、それにしても、それを軍需工場と同列に扱うとは何たる言い草か。自己弁護も甚だしい。

まったく一方的な論理で、腹が立ってしょうがなかった。その少将は、グアム島在米爆撃隊司令官として、広島・長崎への原子爆弾投下にも深くかかわっていたらしいが、一九六四(昭和三九)年、日本政府は「日本の航空自衛隊の育成に協力した」との理由から勲章を与えたという......

日本が勝っていれば、間違いなく戦犯として裁かれていただろうに、戦争に負けるということは何もかもが逆転してしまう。どんな理不尽も正当化されてしまう。やはり勝負は勝たなければ駄目だということを痛感した。


父は大野化学機械株式会社に就職した


それでも幸運だったのは、俺の両親が無事だったことだ。家はなくなってしまったが、家族が無事だったことだけでも俺にはツキがあった。熊や健ちゃんの家族も幸い皆無事だったが、他の友人は両親が空襲で亡くなったりしていたのだ。食べるものもなく、なんとか蓄えで暮らしていたが、周りの状況を見て、俺は両親ともども無事であったことに感謝した。

終戦後、まもなくして、父は大森にあった大野化学機械株式会社に職を得た。親戚で、女優(俳優座一期生)の田村秋子さんの紹介だった。

大野化学機械は、当時、化学工業界の大御所として知られていた大野巌が一九二三(大正一二)年に設立し、政府ともつながりがあった会社だ。大森という場所にあり戦火を逃れたという幸運もあったが、日本の化学工業を引っ張る優良企業だった。

彼は一九四九~五三(昭和二四~二八)年の間、日本工学会の会長を務めた重鎮だった。もう一つ大野を有名にしたのが「能率手帳」。日本能率協会初代常務理事で、経営コンサルタントでもあった大野は、大野化学機械の社員手帳に、初めて時間の観念を持ち込んだ人でもあった。

現在では手帳に一年間の日付があり、そこにスケジュールを書き込むのはごく普通のことだが、終戦直後すでに毎日の予定と時間の使い方を社員に教育していたのだ。その手帳が「能率手帳」として会員企業に配られたというわけだ。今も書店や文具店には「能率手帳」が並んでいるが、その光景を見るたびに俺は大野巌を思い出してしまう。

毎日の食料にすら困る時代に父が企業に就職できたのは、戦時中から部品を納入していたこともあったし、職人としての腕が認められたということもあっただろう。大野化学機械には家族寮があって、当時としては珍しいマンションのような部屋を与えられていた。職も住むところもあって、よくいう「悲惨な戦後」とはあまり縁がなかったように思う。少なくとも、飢えに苦しむということはなかった。

ここには両親と俺の三人で住んでいた。長男の静一は学徒動員で満州に行った。幸運にも戦死を免れて復員したが、戦地での傷がもとで一九四七(昭和二二)年に亡くなった。すぐ上の省吾兄貴は、俺たちが疎開する前に谷口という家に養子に出されていた。谷口の親父は、レコード会社テイチクの重役だったそうだ。省吾兄貴は頭が良かったから、大きくなって一時は新聞社の事件記者になった。その後は日本写真専門学校の先生になって、俺も写真の撮り方なんかを習ったものだ。後に目に怪我をする前までは、俺は本気でカメラマンを目指していた。

大野化学機械の寮は大田区の森ヶ崎、会社のすぐ隣にあった。このあたりは海苔問屋や海苔専門店だらけ。大森海岸は「海苔養殖発祥の地」で、一九六三(昭和三八)年に埋め立てが始まるまでは海苔の産地として全国的に有名な場所だった。俺は近所の「浅草海苔」という店から売り物にならないくず海苔をもらっては、おやつ代わりにしていたものだ。これがけっこううまかった。

そして、夏になると森ヶ崎海岸でよく泳いだ。海岸までは船で行かなければならなかったが、潮干狩りもできたし、絶好の子どもの遊び場だった。ただ、あまりきれいな海岸ではなかったように記憶している。


ガキ大将にはガキ大将のプライドがある


寮の横には宮寺石綿理化工業株式会社(現・株式会社ミヤデラ断熱)の大森工場があり、その角に駄菓子屋があった。その駄菓子屋の入り口には当時近所では珍しかったテレビが置いてあって、野球やボクシング、歌謡番組などを、近所のみんなで黒山のようになって見ていた。よくテレビや映画で「街頭テレビ」の場面をやっているが、まったくそのとおり。俺は、美空ひばりが一一歳でデビューしたときの映像もそのテレビで見た。それは今でも鮮明に思い出せるくらい印象的だった。

小学校四年生からは近くの大森第四国民学校(現・大森第四小学校)に通った。もちろん、ここでもガキ大将。学校で俺の言うことを聞かない奴はいなかった。相変わらずイタズラをしては教師に怒られ、近所のおっちゃんたちには追いかけ回されていた。でも、ガキ大将にはガキ大将のプライドみたいなものがあって、絶対に他の奴のせいにはしなかったし、弱い者いじめをしている奴がいたら自分からやっつけてやった。

だから、時には俺にやられた奴が兄貴を連れて仕返しにやってきたりもしたが、俺は絶対に後には引かなかった。相手が六年生だろうが、中学生だろうが、真正面からぶつかっていくのが俺のやり方だった。さすがに連戦連勝とはいかず、ときにはボコボコにされることもあったが、最後には悪くても引き分けといったところまではもっていったと思う。粘りというか、根性というか、とにかく自分から「参った」と言うことはなかった。だからガキ大将でいられたのだろう。

この時代の喧嘩は自由だった。殴り、殴られ、殴るときの拳の痛みも、殴られた相手の痛みも、自分の身をもって学習していた。だから、この時代の子どもたちは、いくら本気の喧嘩でも、ここで終わりという限度がわかっていた。「頭にきたから殺してしまった」「誰でもいいから傷つけたかった」といった理由で人を傷つけてしまう現代の若者をかわいそうに思う。

暴力は確かにいけない。でも、時には思いっきり喧嘩することだって、相手を知るためには必要なことだと思う。会社単位でもそうじゃないかな。思っていることをぶつけ合って喧嘩した相手とは、仲直りしたあと前よりいい関係になることだってある。

同世代の人と子ども時代の話をすると、みんな必ず一つは武勇伝をもっている。おもしろい時代だった。

この頃の遊びといえば、「けん玉」と「ベーゴマ」だ。遊びでも俺は無敵だった。仲間の中に、俺に勝てる奴はいなかった。

「けん玉」は、けん先をナイフで削って尖らせて、みんなよりも入りやすくしていた。ただ、尖っていて危ないから、俺はそこに鉛筆にかぶせるサックをはめていた。「ベーゴマ」も同じように、回る支点となるところを尖らせていた。これだと摩擦が少ないので、回転がよくなって普通のベーゴマよりも長く回る。実は大野化学機械のおっちゃんに頼んで、グラインダーで削ってもらっていた。遊び一つでも工夫したものだ。だって、負けると悔しいからね。


二〇〇〇円を掏られたときの教訓が生きている


その頃、大森の近くの糀谷に米軍基地があり、よく遊びに出かけた。フェンスの向こう側には大きなシェパードがたくさんいて、それをのぞき見ていたあるとき、一匹の凶暴そうな犬が眼の前まで駆け寄ってきて、 をむき出して吠え立てた。咄嗟に大声をあげて騒いでいると、一人の日系二世のアメリカ人が近づいてきて流暢な日本語で優しくこう言った。

「ボク、逃げちゃ駄目だよ。動物はね、逃げると追うんだ。人生も同じだよ。絶対に逃げないことだ」

そのときはあまり意味がわからなかったのだが、この言葉だけはずっと心の中に残り、成人してからも、この日系二世に言われたことを教訓にしていた。

もう一つ、今でも印象に残っている言葉がある。小学校六年生の頃、友だちと二人で上野まで映画を観に行ったとき、映画館の中で、ズボンの後ろポケットに入れておいた大枚二〇〇〇円を何者かに掏られてしまった。

「大事な物をポケットなんかに入れておいた君もいけないよ。大事な物をちゃんとしまっておくこと。お金も物も大事にしなさい。それと、この二〇〇〇円をとられた悔しさを大人になっても忘れちゃだめだよ。将来はもっと大きなものを摑むんだ」

半泣きで立ち尽くしていると、おまわりさんが、俺にこう言った。慰めなのか、説教なのか、子どもの俺にとってはその状況で言われてもうれしくなかったと思うが、その言葉も今の俺の教訓になっている。

小学校の頃に聞いた言葉が、こんなにも残っているものなのだ。