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第一章 二 敗戦、すべてのことが変わってしまった

二 敗戦、すべてのことが変わってしまった



楽しかった西郷山の思い出


俺が小学校に入学したのは一九四二(昭和一七)年だ。

前年の一二月八日、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃したことを機に太平洋戦争が始まった。家にあったラジオからはアメリカの軍艦を沈めたとか、マニラやシンガポールを占領したとか、思わずこちらが興奮するようなニュースばかりが流れていた。

「喧嘩は勝たなきゃ意味がない」と心に決めていた俺にとって、日本がでっかいアメリカ相手に戦って、勝ち進んでいることは痛快だった。ここからどんどん日本は破滅に向かっていこうとする時期だったが、まだ小さい俺にとってはそんなことはおかまいなし。兵隊は憧れであり、喧嘩の強い男というイメージだった。

その頃通っていたのは菅刈小学校、正確には「東京市菅刈国民学校」といった。兄の省吾が六年生のときだ。

近くには西郷家の大きなお屋敷があった。もともとは西郷隆盛の弟、従道の屋敷で、今ではその跡地の一部が「西郷山公園」になっている。代官山と中目黒の中間あたりだ。

この西郷家のお屋敷というのがとてつもなくでかかった。当時は洒落た洋館が建っていて、西郷さんというのはとんでもない大金持ちなんだなと思っていた。大きな敷地内には小高い山や池、今では信じられないことだが、自然の湧き水なんかがあって、それが滝として流れていた。

家の敷地内に野山があるのだから、子どもにとっては恰好の遊び場だ。ただ公園で遊ぶのとはわけが違う。そこに忍んでいくわけで、「遊び」に「いつ見つかるか」というスリルがくっついているのだから、これほどおもしろい場所はない。ほかの子どもたちは入り込む度胸なんてないから、まさしく俺たちだけの遊び場だった。

俺は幼稚園の頃から、牛乳屋の熊や薬屋の健ちゃんを連れ出しては、西郷家の敷地内に忍び込んで遊んでいた。木登り、鬼ごっこは当たり前。釣竿なんて持っていないから、竹に鉤状にした針金を結び付けて、鯉を直接引っ掛けて捕まえてはまた逃がす、というような遊びをしていた。

当然、家人に見つかればどやされるが、見つかっても捕まるようなヘマはしなかった。熊の野郎は「豊ちゃん、大丈夫かな~」なんてビビッていたけど、俺は「へっちゃらだよ」と胸を張っていた。必ず、三人で逃げ切っていた。でも敵もさるもの、いつまでも逃げ切れるわけもない。あるとき、待ち伏せをされて捕まってしまった。西郷さんのところの使用人にこっぴどく怒られて、庭の草むしりを手伝わされた。

それからは必ずその使用人のおっさんに声をかけてから遊ぶようにした。悪さをすれば怒られたが、多少のことは大目に見てくれた。こういう大人には、子どもは従うものだ。

でも、小学校二年生のとき、当時の国鉄(現・JR)に売却されたとかで、池が埋め立てられてしまった。子どもながらに「なんてことをするんだ」と思ったが、その怒りのやり場がなくて困ったことを覚えている。


六年生の兄の代わりに襲われた


かわいがってくれたおっさんもいなくなってしまった。西郷家のお屋敷にはそれからはあまり行かなくなった。

当時、そのお屋敷の反対側には軍隊の練兵場があって、そこでもよく遊んでいた。夕方になると、練兵場の原っぱにはコウモリがたくさん出てきて、竹竿で叩き落としたり、下駄を投げたりと、今にして思えばコウモリにはかわいそうなことをしていた。まあ、当時は遊び盛りの悪ガキ。許してもらいたい。初めて叩き落としたコウモリの顔がネズミそっくりだったので驚いた。

ある日、この練兵場に日本の戦闘機が燃えながら落ちてきた。空中で燃えているのを見付けて追っかけていったら、練兵場だった。見に行くと、落ちた戦闘機の周りは土が盛り上がっていて、黒い煙がモクモクと出ていた。

そういえば、小学校一年生のときに、その原っぱで六年生に囲まれたことがあった。おそらく彼らは、俺を省吾の弟だと知って意趣返しをしようと思ったのだろう。

省吾兄貴はおとなしい性格で、けっして自分から喧嘩を売っていくようなタイプではなかった。でも曲がったことが大嫌いで、理不尽なことに対しては立ち向かっていくような人だったから、恨みを買うこともあったのだろう。静一兄貴が中学に入ってからは、俺のことも守ってくれていた。

俺のところにやってきた六年生はおそらく、省吾兄貴をよく思っていなかった奴らだろう。俺たちが遊んでいると、「おい、お前、北川の弟だろ」と言って近づいてきた。正直言って怖かった。相手は体もでかいし、人数も多い。一緒にいた熊や健ちゃんは頼りにならない。俺が「うん」と答えると同時に突き飛ばしてきた。

俺は体が小さかったから、すぐに尻 をついてしまった。こっちが正直に答えているのだから、自分だって名乗れとは言わないが、どうして突き飛ばすのか、くらいは説明してくれてもいいはずだ。なのに相手はただニヤニヤしているだけ。俺はこういう奴がいちばん嫌いだった。こっちが筋を通しているのに、自分の力を誇示するだけ誇示してこっちを認めようとしない。筋を通そうともしない。真正面から向き合わないで力でねじ伏せようとする奴をみると、無性に腹が立ってくる。

俺は突き飛ばした奴の腹をめがけて突進していった。見事、ボディに命中。相手がうずくまっているところを今度は尻を蹴飛ばしてやった。必死の形相だったのだろう。熊も健ちゃんも呆然と立ちすくんでいた。それからあとのことはあまり覚えていない。周りの六年生に取り押さえられてボコボコにされたところまでは覚えているが、あとは夢中。気がついたら、傷だらけで家の前に立っていた。喧嘩の勝敗がどこで決まるかは知らないが、俺は決して泣かなかった。六年生のうち、二人は泣いていた。まずは俺の勝ちというところだろう。


町も学校も燃えてしまった辛い記憶


当時一番印象に残っているのが木炭車。近くに「菅刈小学校前」というバス停があって、渋谷行きのバスが走っていた。今の自動車と違って、当時は車のトランクの部分に汽車のように薪を燃やして走るんだ。俺たちはノロノロ走っている木炭車の後ろに飛び乗ったりして、二、三人で遊んでいた。小学校一年生くらいの頃だ。

同じく小学校低学年の頃、俺の家の近く、中目黒と大橋の間の大道路に車のバッテリー屋さんがあった。そこに山羊がいて、こいつをからかうのにもハマっていた。俺が山羊の頭を押すと、押し返してくるから、おもしろかった。冬のある日、山羊の近くで店の主人が焚き火をしていて、俺もあたっていたら、山羊の奴、ふだん俺を押しているからその気になったのか、こんな場所でも俺を押してきた。当時は下駄に足袋だったから、焚き火のほうに押された拍子に足袋に火がついて火傷をしてしまった。まあ、山羊に悪気はなかったのだからしょうがない。

学校でもじっとしている子どもじゃなかった。戦前の学校だったから、今の小学校に比べたら先生はおっかなかったし、教練のときなんかはよくぶん殴られた。担任は女の先生だったが、この先生が泣き虫。俺は遅刻はするわ、言うことは聞かないわ、というまったくの問題児で、先生も最初はヒステリックに怒っていたが、俺が知らん顔をするとすぐに泣き出して、こっちが困ってしまうこともあった。でも、それがおもしろくて、先生がトイレに入ったときなどに下駄を投げ入れたり......。そんなことを続けていたら、秋口にその先生は学校を辞めてしまった。ちょっと寂しい気がした。申し訳なかったと思う。

そんな風だったから、小学校でもヤンチャで有名になって、近所では悪ガキ、学校では「札付き」のレッテルを貼られていたようだ。でも大人たちが真剣になって怒るから、俺も真剣に悪さをしていたようなものだ。

俺の目黒での生活は小学校三年生で途切れる。

戦争が激しくなり、いよいよ本土決戦かという情勢になっていたのだろう。俺の住んでいた目黒は木造の家が密集していたため、空襲を受けた際に火がすべての家に燃え移らないよう、隣接している家は片方を壊して空き地にしていた。その解体現場に遊びに行った俺は、右目に木クズがたくさん入ってしまい、目を悪くしてしまった。こういう作業は、今の若者には想像がつかないだろう。

都内の小学校では「学童疎開」のため地方に避難を始めていた。生徒や教師などの多くは福島県に疎開したと後になって知ったが、俺と家族は、なぜか埼玉県の越生に疎開することになった。

埼玉に疎開するために、荷物を渋谷駅に運んでおいたのだが、五月二五日の深夜、目黒、渋谷一帯が空襲を受け、一面焼け野原になった。渋谷駅に置いてあった荷物もすべて燃えてしまった。みんなで代官山に逃げたとき、俺はその頂上から渋谷の街全体がメラメラと燃えているのを見た。

菅刈小学校も燃えている。子ども心ながらに、自分の学校が燃えているのを見ていて、ただただやるせなかった。今でもその光景はハッキリと思い出せる。


兵隊たちを見ていて負けるような予感もあった


疎開先の越生ではお寺で生活していたが、毎日、兵隊がやってきて裏山の木を切っていたのを覚えている。戦争をしているのに、戦場に行かないのか、行けないのか、こんなところで木を切っているのが本当に戦争をしていることになるのか、兵隊を見ていてそんなことを考えてしまった。兵隊にも、戦う以外にいろいろな仕事があるということが理解できなかったのだろう。

その寺の境内で、六〇人ほどの兵隊がドラム缶にお湯を沸かして風呂に入っていて、俺たちも時々入らせてもらった。

学校の通学路の脇には蛇がたくさんいた。俺は蛇が大嫌いだ。蛇がいると、回り道をしていた。ドブ川には小さいカニがいっぱいいたのも覚えている。周りの家は蚕を飼っていて、桑畑が広がっていた。そんな、自然がいっぱいの場所だった。

八月の、やけに暑い日のことだった。俺たちは寺の境内に集められた。近所から村の人たちもやってくる。来るのは年寄りと女と子どもたちだけ。本堂には教師や村の大人たちが入り、子どもたちは境内の地面に座らされた。大人たちはどこか不安げな表情を浮かべている。

「何があったのだろう」

俺はこっそりとみんなが座っている列を離れた。こうしたすばしっこさは、誰にも負けない。柱の陰に隠れて本堂の様子を窺うと、大人たちがラジオに聴き入って、うなだれているのが見えた。流行歌を聴いているのでないことは、子どもの俺にもわかった。実際にどんな放送を聴いていたのか、そのときはわからなかったが、ずっと後になってあれが玉音放送だったのだと知った。

翌日、先生はみんなを集めて、「日本は戦争に負けた」と泣きながら話してくれたが、俺には信じられなかった。これまで日本は神の国だから負けるはずがない、連戦連勝と言っていたではないか。今考えてみれば、六〇人もの兵隊が戦場にも行かず、こんな山の中で木を切っていたのだから、戦争に勝てるはずもなかったのかもしれない。とにかく、越生で俺は終戦を迎えた。