第一章 嵐の前の静けさ、俺の「少年時代」
一 戦争突入前夜、そんな時代に生まれた
あの二・二六事件が俺の産湯だった
一九三六(昭和一一)年一月一〇日、東京都目黒区の上目黒で俺は生まれたらしい。「らしい」というのもおかしな話だが、それは後で話すとして、とにかく俺は今の中目黒あたりでボルト工場を営んでいた北川栄・いし夫婦の三男として育てられた。
一九三六年という年は、日本が戦争にまっしぐらに突き進んでいく、その入り口みたいな年である。平和なのか、そうでないのか、よくわからない時代だが、これから暗い闇の中に突入しようとするそのプロローグ、助走期間といった時期だったのだろう。
二月には、国を憂えた若い将校たちが立ち上がった「二・二六事件」があったし、「日本国」「大日本国」などまちまちだった国名を「大日本帝国」に統一したのもこの年だと聞いた。永田町に帝国議会議事堂(現在の国会議事堂)もできた。一一月には日独防共協定も締結されている。
ナチス・ドイツではベルリン・オリンピックが開かれ、日本では初のプロ野球リーグ、日本職業野球連盟ができた年でもあった。資料を見ると、東京巨人軍優勝の文字が躍り、大阪タイガースの藤村富美男がホームラン王を取ったとある。ピッチャーでは沢村栄治が最多勝を獲得。沢村は出征して帰らぬ人となった伝説の大投手だ。物心ついて野球にのめり込むようになったとき、まだ「職業野球」で活躍していた名選手たちの名前がそこにはあった。彼らの名前を見ると、当時のプレーを思い出し、いくつになってもドキドキしてしまう。
「阿部定事件」というのも俺の生まれた年だ。不倫の末の悲しい末路だが、男の局部を切り取ってしまったという事件で、後々まで語り継がれている。今では一般的になった局部を意味する「下腹部」という言葉も、このとき生まれたそうだ。
実は、俺はこの定さんに会ったことがある。ずっと後のことになるが、俺が浅草の近くにある三ノ輪の駅裏でスナックをやっていた頃のことだ。知り合いに住吉会系の親分がいて、その奥さんが定さんを店に連れてきた。
透き通るような肌をした人だった。ただ、辛い生き方をしてきたのだろう、ずっと下を向いていて、俺は「幽霊のような人だな」と思った記憶がある。
定さんは一九四一(昭和一六)年、恩赦により減刑されて出所した後、その親分の所に身を寄せていて、奥さんが面倒を見ていたと聞いた。
こんな事件の年に生まれたというのも「俺らしいか......」などとも思ってしまう。太平洋戦争前の静かな時期、嵐の前の静けさといったところだったのだろう。束の間の平和を人々が楽しんでいた時期でもあった。
太平洋戦争が始まってしまえば、日本国中が戦争に向かってまっしぐら。終戦直後であれば、貧困にあえぐ生活を強いられただろう。だから、その狭間の、経済的にも精神的にも、どこか人々にゆとりがある時期に生まれたことは、今から考えると幸運だったのかもしれない。
養子だったが幸せな家庭に育った
じつを言うと、俺は両親の本当の子どもではない。「らしい」と言ったのはそれが理由だ。それはずっと後、そうだな、大学に入学するときになって母親のいしから聞いた。生きていること自体が苦しい時代に子どもを預けられたら、北川の両親だってこれほど俺に愛情を注いではくれなかったかもしれない。
俺の本当の父親は石塚 三郎、母親は土屋花子といった。
石塚は北川家の親戚で、大井の三ツ又で石塚書店という本屋を経営していたという。当時としては大きい本屋で、付近の学校の教科書も取り扱っていたので、近所では有名だった。人々が活字に飢えている時代、本は飛ぶように売れたのだろう。当時はなかなか羽振りがよかったらしい。
そこで女中として働いていたのが花子だった。主人が女中に「手を出す」というのは、当時は珍しい話ではないが、当然のことながら石塚には女房も子どももいたから、身籠った花子をそのまま家に置いておくわけにはいかない。大金持ちなら愛人を囲い、別宅に通うということもあるだろうが、 三郎はそこまで裕福ではなかった。困った 三郎は、身籠った花子を説き伏せ、生まれたばかりの俺を北川家に預けた。それも生まれてすぐ、名前も付けないうちにというからひどい話だ。
石塚家は一九四八(昭和二三)年に設立された小田急電鉄株式会社の役員の一人、石塚享が出た家系で、「享は俺のいとこにあたる」と、北川の父が話してくれた。
北川の両親は、本当に俺をかわいがってくれた。すでに長男の静一、次男の省吾という二人の息子たちがいた。俺が預けられたとき静一が七歳、省吾が五歳だったというから、決して生活は楽ではなかったはずだが、そんななかでも実の子と同じように育ててくれた。両親にとっては久々の子どもだったこともあってか、俺は何一つ不自由を感じたことはなかった。当時としては珍しく幼稚園にも通わせてくれた。
当時は公立の幼稚園などない。私立の双葉幼稚園。両親の思いなどまったく知らない俺は、よくいたずらをして幼稚園から帰された。喧嘩をしては周りの子どもたちを泣かせていたらしい。そのたびに母親にはどやしつけられるのだが、とにかく二人の兄と同じように、分け隔てなく接してくれたし、教育も受けさせてくれた。
両親が忙しかったせいもあり、長男の静一、次男の省吾もずいぶん俺の面倒を見てくれた。次男の省吾とは五つ違い、長男とは八つ違いだったから、二人にとっては喧嘩の相手にもならない。幼稚園に通っていた頃、三人で目黒川に魚とりに出かけて俺が川に落ちたことがあった。静一が必死になって俺を救い出してくれたことを覚えている。
俺が喧嘩をして帰ってくると、「勝ったか?」と静一と省吾が並んで聞いてくる。俺が「うん」と答えると、二人の兄が褒めてくれた。二人とも今はもう天国に行ってしまったが、そのときの二人のうれしそうな顔は今でも忘れられない。俺のヤンチャは二人の兄貴のうれしそうな顔から生まれたのかもしれない。後に、静一が出征し、省吾が養子に出たこともあって、両親は俺の成長を楽しみにしていたと思う。その期待に応えることはおそらくできなかっただろうが、とにかく北川の両親に対してはいまだに感謝している。