2017年10月18日(水曜日)
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憂国の風「わが左翼体験記 ~ある元左翼少年の回想~」 三島由紀夫研究会代表幹事 玉川博己

 私は大学時代に民族派学生運動の日本学生同盟(日学同)と出会い、大学三年生のとき日学同委員長であった私はあの三島由紀夫先生と森田必勝烈士の市ヶ谷台決起に際会し、以来今日に至るまで「憂国忌」の運動に携わっている。多くの友人や知人はそうした私の経歴から、私が昔からの生まれながらの民族派であったと思っている人も少なくない。しかし実際私には中学から高校にかけての数年間先鋭的な左翼少年として過ごした時期があるのだ。以下私が何故マルクス主義の魅力に取りつかれていったのか、また当時物事をどのように考えていたのか、そしてどのようにして左翼の世界から日本へと回帰していったのかを回想してみたい。またこれは決して私個人の問題ではなく、戦後占領体制の遺制と虚妄の「平和と民主主義」がどのように青少年を感化させていったのか、を示すよい事例でもあろう。

 私が中学校に入学した年はかの60年安保闘争が燃え上がった年であった。テレビや新聞で見る国会周辺の全学連のデモには大きな印象を受けた。当時私は父の転勤で名古屋に住んでいた。社会科の教師からは岸首相が目指そうとする日米安保条約の改定は日本を再び戦争に巻き込むおそれのある、断固阻止すべき暴挙であると教わった。同年10月に起きた山口二矢少年による浅沼稲次郎社会党委員長の刺殺事件は、教師から今や再び軍国主義とファシズムの亡霊が甦ろうとしている、と説明された。中学二年になると、成績も良く、真面目な生徒であった私は、共産党員の担任教師から可愛がられ、読書指導も受けた。エンゲルスの「空想より科学へ」やマルクス・エンゲルスの「共産党宣言」を読んだのもこの頃であった。今から思うと大変早熟な少年であったように思う。そして私が入学した名古屋の県立旭丘高校は左翼運動のメッカのような高校であった。職員室には堂々と共産党機関紙「アカハタ」(当時は「赤旗」でなくてカタカナ名であった)が配られ、社研や生徒会活動が盛んな学校であった。マルクス主義というのは数学の問題を解くような明快さ、爽快さが魅力であったと思う。人類の歴史は階級闘争の歴史であり、古代奴隷制から中世封建制社会、そして絶対主義を経て資本主義に発展し、やがて資本主義の矛盾、すなわち資本主義における生産関係と階級の矛盾はプロレタリア革命によって止揚され、社会主義に到達するのが人類の歴史的法則であると教えられると本当にそうだ、と思い込ませるところがあった。マルクス主義は階級闘争史観、唯物弁証法、剰余価値学説、労働者階級窮乏化理論など多くの公式から構成されており、そうした公式をマスターすれば世の中の事象から世界情勢までが実に明快に理解することができた。

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