rekidai「歴代天皇の詔勅謹解」

歴代天皇の詔勅謹解 第七回 「第十一代垂仁天皇から第十三代成務天皇の詔」 御所市議会議員 杉本延博

第十一代垂仁天皇

 

○國名を任那に賜ふの詔 (謹抄) 二年 『日本書紀』 

是を以て汝の本の國の名を改めて、追いて御間城天皇の御名を負りて、便ら汝の國の名と爲よ。

 

 先帝・御間城天皇(崇神天皇)の御名をとって、国名とするよう任那の使者である都怒我阿羅斯等に下し賜れた詔であります。

 これにより任那の国号が起こったのであります。

 詔の大意は「汝が道に迷うことなく早く来ていたら、先帝・崇神天皇に会えたであろう。そこで汝の国の名を改めて、先帝・御間城天皇の御名をとって、汝の国名にせよ。」であります。

 

○力士を相撲らしめ給ふの詔 七年七月七日 『日本書紀』 

朕聞く、當麻蹶速は天下の力士なり。若し此に比ぶ人有るか。

 

 大和の国當麻(奈良県葛城市)に當麻蹶速という無敵の力士がいました。この者に果たして勝てる力士が国内にいるのであろうかと仰せになられた詔であります。

 以後、野見宿禰が當麻蹶速と対戦することになります。結果は、野見宿禰が見事勝利をおさめたのでありました。これが我が国ではじめての相撲であります。

 詔の大意は「私は聞いている。當麻蹶速は天下の力士であるという。誰か勝てる者はいるのであろうか。」であります。

 

○譽津別王に關して羣卿に下されし詔 (謹抄) 廿三年九月二日『日本書紀』

 譽津別王は是生れて年既に三十。(謹略)猶泣つること兒の如し。常に言はず。何の由ぞ。因りて有司に令せて議れ。

 

 垂仁天皇は、皇子・譽津別王のことで宸襟を悩まされていました。そこで群臣にたいして相談あそばされたときの詔であります。

 天湯河板挙が飛んでいる鳥を捕獲して献上されました。その鳥と遊ぶうちに皇子が始めて言葉を発せられ、天皇がお喜びになられたのであります。

 詔の大意は「譽津別王が生まれてから既に三十歳となる。しかし顎鬚が長く伸びるまで、赤子のように泣いてばかりいる。言葉を話せないのは何故だろうか。有司の皆でよく謀ってほしい。」であります。

 

○神祇を祭り給ふの詔(謹抄) 廿五年二月八日『日本書紀』

神祇を禮祭り、己をせめ躬を勤めて、日に一日を慎む。是を以て人民富み足りて、天下太平なり。今朕が世に當りて、神祇を祭祀ること、豈怠ること有るを得むや。

 

 崇神天皇の御聖業を回顧なされるとともに、御自らも先帝に習い祭祀を怠ることなく、まつりごとに精励することを五大夫に仰せになられた詔であります。

 詔の大意は「先帝の崇神天皇は賢く聖であり、聡明で、まつりごとをよく御覧あそばされ、天地神祇をお祭りして、御身を反省し、毎日慎み深い生活をお勤めあそばれた。だからこそ国民が富み栄えて、国家が安泰であった。今、私の代にあたり、どうして神祇の祭祀を怠ることができようか。」であります。

 垂仁天皇の御代に、倭姫命は神意を奉じて菟田の筱幡、近江の国、美濃の国と御幸されていきます。そして伊勢の国に辿り着かれたとき、天照大神が「神風の伊勢の國は、則ち常世の浪の重浪歸する國なり。傍國の可怜國なり。是の國に居らむと欲ふ。」と仰せになられたことから、五十鈴川の川上に奉斎なされました。これが伊勢大神宮内宮の御創建の起源であります。

 

○出雲國の神寶を撿校せしめ給ふの勅 (謹抄) 廿六年八月三日 『日本書紀』

 其の國の神寶を撿校へしむと雖も、分明しく申言す者なし。汝親ら出雲に行りて宜しく撿校へ定むべし。

 

 出雲の国の神宝を調べるよう大連・物部十千根に命じられた詔であります。

 詔の大意は「何度か使者を出雲の国に遣わして、その国の神宝を調べたが、明らかに申し上げるものがいない。汝が出雲に行き神宝を調査するようにせよ。」であります。

 

○殉死を止め給ふの詔 廿八年十一月二日『日本書紀』

夫れ生くるときに愛みし所を以て亡者に殉はしむ、是れ甚だ傷なり。其れ古の風と雖も、良からずば何ぞ従はむ。今より以後、議りて殉はしむることをやめよ。

 

 倭彦命の御墓を築造したとき、古の慣習によって埋められた臣下の呻き声が、天皇の御耳まで届いたことに宸襟を悩まされていました。そこで、この詔を仰せだされて殉死の制が禁じられたのであります。

 詔の大意は「生前に寵愛を受けたことにより、亡き人のため殉死を強制されるということは、痛ましいことである。いくら昔からの慣習とはいえ、悪いことは改めても差し支えない。今後は是をやめて、殉死を禁ずるようにせよ。」であります。

 

○皇后日葉酢媛命の御大葬に關して群卿に諮ひ給ふの詔  卅十二年七月六日『日本書紀』

 汝の便なる議、寔に朕が心に治へり。今より以後、陵墓に必ず是の土物を樹て、人をな傷りそ。

 

 皇后・葉酢媛命の大葬にあたり、群臣に詔を仰せだされて御諮問になられたのであります。これに対して野見宿禰が、「埴土の器を陵墓にたてるべき」と奏上しました。天皇はこの案を直ちに採り入れたのでありました。これが埴輪の起源であります。

 詔の大意は「汝の考えた策は、私の心に適っている。これからは、必ず陵墓に土物を立てて人の命を傷つけないようにせよ。」であります。

 

○天日槍の將來れる寶物を見給ふの詔 (謹抄) 八十八年七月十日 『日本書紀』

 元め國人の爲に貴まれて、則ち神寶と爲りたり。朕其の寶物を見ま欲し。

 

 詔の大意は「新羅の国の王子・天日槍がはじめて来朝したときに、持参した神宝が但馬にある。そして国の人びとに尊ばれて神宝になっている。私はその神宝を見たいと思う。」であります。

 

第十二代景行天皇

 

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