2018年06月22日(金曜日)
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看過できぬ大学入試センター試験の歴史観   つくる会事務局次長 清原 弘行

看過できぬ大学入試センター試験の歴史観
 
つくる会事務局次長
清原 弘行

 
 本年の大学入試センター試験日本史Bにおいて看過できない設問が出題された。
1月25日の産経新聞朝刊1面でも取り上げられたため、ご存知の読者の方も多いだろうが、あらためて解説しておきたい。
 
その設問は本年1月13日に実施された大学入試センター試験日本史Bの第1問である。
当該設問は自治体の観光課に属すると設定された2人の人物の観光、文化遺産についての会話文に空欄や下線があり、その箇所に関連する内容を問うものである。
「ゆるきゃら」や近代文化遺産についての会話が続く中、唐突に次のような文章が挿入される。
 
「ただ、明治維新を経て近代国家となった日本が、軍事的にアジア諸地域へ侵攻し、他国を植民地にしたり領有したりしたことも忘れてはいけない」
 
 設問ではこの会話文の「他国を植民地にしたり領有したりした」に下線が引かれており、関連するものとして地図上から南北樺太の日露国境標石と満洲の関東都督府の正しい位置を選ばせる構成となっている。
 つまり、この設問は我が国が日露戦争に勝利し、ポーツマス条約を経て獲得した権益を問うている。
 
 日露戦争はロシアの南下政策という侵略的圧力に対する防衛戦争の意味合いが強く、「軍事的にアジア諸地域へ侵攻」という「日露戦争=侵略戦争史観」で語ること自体に首を傾げたくなるが、特に問題となるのは樺太の日露国境標石を取り上げることであろう。
 
 外地である満洲とは異なり、樺太には江戸時代以前の日本人による統治の歴史がある。
 江戸時代前半には松前藩がアイヌとの交易を通じて樺太の統治を進め、幕府にも藩領と報告している記録が存在する。
19世紀になると日本との交易を断られたロシアが蝦夷地の各地を襲撃するようになり、1807年(文化4年)に樺太は幕府直轄地となる。ここで幕府は内地同様に宗門人別改帳を作成し、樺太の人口を正確に把握するようになる。教科書にも記載される間宮林蔵の樺太探検はその翌年から開始され、樺太が離島であることが確定する。当然であるがこれらの動きは樺太にロシアの支配が及んでいれば実現不可能であり、日本が統治していたことの証明と言えよう。
 
 その後、幕末・明治となり、近代国民国家として領土の画定を必要とされた我が国はロシアとも交渉に及び、1855年に日露和親条約を締結するが、この条約では樺太の国境を確定できず、両国民混住の地とされる。
しかし、クリミア戦争に敗れたロシアはアジア・太平洋への圧力を強め、樺太開発も積極的に乗り出すようになる。ロシアとの衝突を恐れた明治政府は1875年(明治8年)に樺太・千島交換条約を締結し、樺太をロシアに譲り千島全島を得ることでロシアとの戦争を回避し、領土を画定させた。しかし、これは300年近い日本人の樺太開発の成果の放棄であり、近代化の途上にある我が国にとって止むに止まれぬ選択であった。
 
 1905年(明治38年)の日露戦争の勝利により我が国は南樺太を得るが、これはセンター試験の設問で語られる様に「他国を植民地にしたり領有したりした」のではなく、本来の我が国の領土と権益を「取り戻した」のだ。センター試験出題者の歴史観は江戸時代からの日本による樺太開発の努力と成果を完全に無視しており、明らかに誤りである。
  
 サンフランシスコ平和条約により、我が国は南樺太の領有を放棄している。しかし、日ソ中立条約の一方的破棄以後のロシアの占拠、領有を認めたわけではない。正しい歴史・領土教育確立のためにも政府・文科省は教科書だけでなく、不確かなセンター試験の設問にも厳しく目を向けるべきだ。
 

(1月25日の産経新聞朝刊1面)