2017年12月15日(金曜日)
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世界史から紐解く日本「2人の『林』~外国から祖国を護ろうとした中国と日本の男たち」佐波優子

 今回は、清朝(しんちょう)時代の中国と江戸時代の日本に生きた2人の男を紹介したい。1人はアヘン戦争の脅威から清朝を護ろうとした林則徐(りん・そくじょ)、もう1人はロシアの脅威から日本を護ることを著書で訴えた林子平(はやし・しへい)だ。共に18世紀に生まれた。意図して並べたわけではないが、2人とも「林」という字を苗字に持つ。近現代のアジア、欧米列強の脅威が迫る中、2人の林はそれぞれの場所で祖国を護ろうと奔走した―――。

イギリスはなぜ清朝にアヘンを輸出したのか

 16世紀初めに「お茶」が伝道師や船員によってヨーロッパに紹介され、喫茶の習慣が広まっていった。特にイギリスでは19世紀に入ってからティータイムが習慣となったため、茶の需要が急激に高まったのだ。今、紅茶といえばダージリンやアッサム、セイロンなどのインドやスリランカの茶葉が主要だが、それは後になってから栽培が始められたもので、19世紀の初めは中国のお茶が主流だったのである。だからイギリスは毎回大量の銀貨を船に積んで清朝の広州で茶葉との交換を行っていた。
 大好きな茶葉は買えたものの、イギリス側には不満が残った。なぜならイギリスばかり清(しん)の茶を買って、清(しん)はイギリスのモノを買ってくれないからだ。それではイギリスの銀貨がどんどん清(しん)に流れ込むだけになってしまう。イギリスの方も産業革命以降製作が盛んになった綿製品を清(しん)に買ってもらおうと画策したのだが、清朝(しんちょう)は清朝(しんちょう)でモノは十分にあり、他国から何かを買う必要はなかったのである。18世紀末、イギリスがマカートニーを清朝(しんちょう)に遣わして貿易を促した時にも、清朝(しんちょう)の皇帝・乾(けん)隆(りゅう)帝(てい)はイギリスの王ジョージ3世に当てた書で、うちはモノが沢山あるから外国と通商する必要がないとはっきり書いていたくらいだ。
 だから紅茶が飲みたいイギリスにとっては、銀貨を払って清(しん)の茶葉を買い続けるしかなかったのである。しかしイギリスとしても、流出し続ける銀貨をなんとか止めなければならないと考えていた。そこでイギリスは、綿織物は見向きもされなかったがアヘンなら中毒性もあり売れるだろうと考え、アヘンを清(しん)に大量に輸出することにしたのだ。アヘンは危険な麻薬である。ケシという植物の乳液から作られ、吸引すると中毒になり止められなくなり身体や精神が蝕まれていく。中国にも昔からアヘンはあったし取り締まりも行っていたが、この貿易で多量のアヘンが清(しん)に入ってくることで国民のアヘンの吸引は急速に広がっていったのである。
 イギリスはより効率的になるようにインドを含めて3ヵ国で貿易を始めた。貿易の中心的存在となったのはイギリスのジャーディン=マセソン商会である。貿易の流れはこうだ。イギリスがインドに綿織物を輸出して、インドはアヘンを栽培して清朝に売る。清朝は今まで通りイギリスに茶葉を売る。こうしてモノが3ヵ国をぐるぐる回っていくうちに、一旦は中国に留まった大量の銀貨がまたイギリスに戻っていく仕組みだ。1830年代になるとイギリスが茶葉を輸入する量よりも、清朝(しんちょう)がアヘンを輸入する量の方が上回った。銀貨もしっかり回収でき、この辺りのやり方はイギリスは知恵に長けていたとしか思えない。

増え続けるアヘンの脅威

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